大阪市城東区蒲生町にも古い町並があった。蒲生堤(今福堤)に沿っての集落蒲生村である。蒲生村は今は埋め立てられてなくなりましたが、鯰江川の右岸の堤防(蒲生堤)に沿って形成されていた集落です。堤防上の集落ですから道路は各所で湾曲していて、周りの土地より数メートル高い所を道路が通りそれに沿って家屋が建っている。鯰江川は摂津国近辺の低湿地の悪水排除のために掘削されたと考えられる水路で、右岸堤防上の道を、貞享4年(1687)の新撰増補大坂大絵図などは堤上の道に大和街道と記していて、大和へ通じる街道だった。 江戸時代は幕府領として続いていたが、江戸末期に大坂城代領となっている。 明和8年(1771)の村明細帳によると人数375とあり、蒲穂が名産であった。 慶長19年(1614)大坂冬の陣では、西軍がこの蒲生堤を3ヶ所切断し、柵を4重に設けている。付近は川幅が広く周辺はすべて水田で、堤上の他に通路がなかったためである。この合戦ではこの柵を奪い合い共に一進一退を繰り返して勝敗が決まらなかった。 この蒲生堤(今福堤)の堤防上の道が野崎街道とも呼ばれ、江戸時代から明治の末期頃まで「野崎観音」へお参りする人達で賑わった道です。野崎観音へはこの街道の他に天満橋から寝屋川(旧大和川)や鯰江川を屋形船で上る方法があった。昭和初期に東海林太郎の「野崎小唄」で唄われた「野崎参りは 屋形船でまいろ、何処を見ても菜の花ざかり‥」ののどかな風景は今は望むべくも無い。 今でも周りよりも少し高くなった旧街道筋に沿って、古い伝統的な家屋や看板形式の家屋が点在して、過っての街道筋だった面影が色濃く残っている。JR環状線京橋駅辺りから小さな湾曲を繰り返しながら蒲生1丁目から4丁目と東に続き、今福南に入り寝屋川にかかる極楽橋でこの堤は消滅していた。こんな街道筋の面影を残した町が今の大阪市内、それも繁華街京橋近くに存在することが不思議な町並だと思います。 大阪府の地名U 平凡社 平凡社地方資料センター 1986年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58 |
蒲生1丁目の町並 |
蒲生2丁目の町並 |
蒲生4丁目の町並 |
蒲生4丁目の町並 |
蒲生4丁目の町並 |
蒲生4丁目の町並 |
蒲生4丁目の町並 |
左側今福南2丁目・右側今福南1丁目 |
今福南1丁目の町並 |
左側今福南2丁目・右側今福南1丁目 |