西脇市西脇は播磨地方の東部で、加古川とその支流杉原川の合流点付近に位置する。西脇市の中央部で、第2次大戦後に官公庁が新しく開発された郷瀬町に移転するまでは、市の中心地であった。西脇村は大きな地域で東本町・南旭町・上本町・仲之町・山手町・豊川町・戎町・北本町・中本町・南本町に分かれている。 今回訪ねたのは和田町・北本町・中本町・南本町周辺地域で、加古川と合流する前の杉原川の右岸地帯。 杉原川右岸の西脇村地区(北本町・中本町・南本町)の江戸時代は慶長5年(1600)姫路藩領、寛永16年(1639)幕府領、延宝6年(1678)下総国佐倉藩領、貞享3年(1686)相模国小田原藩領、延享3年(1746)一橋家領、文政3年(1820)幕府領、天保元年(1830)からは武蔵国忍藩領で明治を向かえる。和田村は姫路領のあと、寛永16年(1639)幕府領となり、寛保2年(1742)に三草藩領となり明治をむかえる。 西脇村の杉原川両岸の地域が含まれた記録で、免定家数人別記録によると、延享4年(1747)の家数70・人数333。寛政2年(1790)の家数89・人数398。天保元年(1830)の家数97・人数456。万延元年(1860)の家数115・人数552。和田村は享保5年(1720)の村明細帳によると、家数67・人数283。寛保2年()の村明細帳では家数75・人数310。宗門改帳によると文久2年(1862)には家数113・人数466とある。 近世初頭から中期にかけて、新田開発が活発に行われ、温暖な気候もあり米・麦の二毛作地帯であった。また、農間余業として菅笠・播州縞・すき櫛・凍豆腐・竹籠・釣針は当地方の代表的な産物であったが、中でも釣針と播州縞は以後西脇を代表する地場産業となった。 今回訪ねたのは旧西脇村の中でも杉原川の右岸で、規則正しく南北・東西に碁盤目状に区画された地域で、古い形式の住宅が、町並みの中に点在していた。 杉原川左岸豊川町の御屋敷街の町並とは大きく異なり、こちらは庶民の町と云う感じの町並だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 兵庫県の地名U 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1999年 |