御津町室津の町並み
室津
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室津の町並み
  姫路市の西南 御津町の西方に室津はある。古くからの瀬戸内航路にあって、室津は天然の良港として知られた港津であった。
摂津の淀川の河口港 難波津を出て、瀬戸内海を西に進むと、延々と砂浜の海岸が続いていた。難波津から室津までの瀬戸内には暴風を避ける最適な場所がなかったのである。室津は畿内を出てはじめてたどり着く、強風から安全な港であり、風待ち・潮待ちのため絶好の港であった。
中世の室津は重要な港として機能し、南北朝期、足利尊氏が東上の際には室津に入港して見性寺に宿泊し、康永元年(1342)には足利義満が厳島神社参詣の帰路当地に立ち寄っている。その後室津は日明貿易に伴って繁栄し、応仁の乱には大内政弘の船団500艘が入港している。
播磨国は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、三河吉田から移封した池田輝政の領地となったが、その後龍野・新宮・林田の諸藩が成立したが、室津だけは姫路藩の飛び地となって残され、江戸の初めから明治にいたるまで姫路藩の支配であった。
江戸期、参勤交代の西国大名の殆どが室津を経由していた。明和4年(1767)の「薩摩藩覚書」によると、室津の本陣は肥前屋・肥後屋・紀井国屋・筑前屋・薩摩屋・一津屋の6軒であった。他に本陣が不足した場合、回漕問屋の嶋屋と海産物問屋の魚屋が一行の宿舎に充てられ、西国の73藩が利用したという。
朝鮮通信使やその他の貴賓の宿泊には、姫路藩のお茶屋が充てられていた。宝暦年間(1751〜64)の家数791軒・人数3251人であった。 
朝鮮通信使や西国の大名の殆どが、参勤に航路を利用して室津で停泊していたから、早くから御茶屋が設置された。また室津では寛永年間(1624〜28)には、城山の頂上に商船の通行を見張る遠見番所が建設された。
江戸期の流通経済が発達していく中で、同じ姫路藩中でも高砂や飾磨は河川の河口部にあたり、年貢米や物資の集散地として多くの商家が誕生し、これらの物資を扱う問屋などの富商が多く生まれ商業が発達したが、室津はそのような後背地を持たないことで、商業的には大きな発展がなかった。
一般の街道筋では本陣と脇本陣がともに1軒か2軒であるのが多い中で、室津には実に六軒もの本陣があって、瀬戸内海航路上に室津がいかに特異な位置にあったかがわかる。
江戸時代の前期には室津は「有名で大きな港……約600戸」「住民の大部分は……豊かな暮らしを立てている」と伝えられ、下関の4〜500戸と比べると、まさに瀬戸内を代表する大きな港町であったことがわかる。
しかし、江戸時代後期になると室津は「二三の商店のほかには……住民たちのすまいはあまり裕福でない様子は意外であった」(シーボルト)、「むかしは富りけんとおぼしき大なる家も、近頃は衰え窮せりと見えて、そこかしこ損じたる家あまたみゆ」(平八)と伝え、港町の知名度の高さと町並みや商業活動との落差を強く感じていたことがわかる。経済的な発展は大きく見られなかったが、室津の航路上の重要度は変わらなかった。そのことは参勤の大名達の宿泊の多さの事例でわかる。
今は本陣の遺構は全く残っていないが、豪商の魚屋と嶋屋の遺構は残っていた。室津民俗館は魚屋の旧豊野家で、3列9室の大きな家屋である。この建物は嘉永年間(1846〜54)以降に建てられたものである。切り妻造り、二階建て、平入り、本瓦葺き、格子、出格子であるが、室津では珍しい虫籠窓もあった。
室津海駅館は嶋屋の旧佐藤家である。嶋屋半四郎が江戸時代後期に建てたものであり3列9室の大きな家屋である。東面庇付きの切り妻造り、二階建て、平入り、本瓦葺き、格子、出格子、くぐり戸付きの大戸であった。                                             
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参考文献    
  兵庫県の歴史散歩下  山川出版社  兵庫県高等学校教育研究会  1996年
  室津伝統的建造物群保存対策調査報告書 御津町 御津町教育委員会 平成10年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63年

室津海駅館の旧嶋屋の佐藤家

室津民俗館の旧魚屋の豊野家

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