守口市の町並み
本町・祝町・桜町
地図


本町2丁目の町並

  京阪電車守口駅の西側道路の上に風情のないコンクリートの橋が架かり、その上を時々人や自動車が行き来している。この道が文録堤で旧京街道でもある。
文禄年間(1592〜96)伏見城を築城した秀吉は、伏見城と大坂を結ぶ陸路の距離を短縮し、大坂城防衛のために、伏見と大坂との間延長27.7kmに及ぶ堤を毛利輝元、小早川隆景などに命じて淀川左岸に築かせた。築堤年号から文録堤と呼ばれている。
古くから、京都−大坂を結ぶ道筋は淀川の水路を利用して船で往来するのが主で、陸路をとった場合は、八幡から東高野街道をとるか、樟葉から枚方に出て飯盛山の西麓から大坂に入るかのいずれかであった。
この文禄堤は従来の陸路交通に大きな変化をもたらし、たびたび流れを変えた淀川流路は固定され船運の便も計られるとともに、堤の上を京街道が走ることになった
東海道53次は江戸の日本橋から京都の三条大橋までであるが、江戸時代における経済の中心が大坂であったため、京都から大坂への往来が活発になるとともに東海道も延長され、宝永年間(1704〜1710)には江戸ー大坂間56次をもって東海道と呼ばれるようになっている。
 守口宿の成立年代は確定できないが、元和7年(1621)以前に宿駅となっている。宿は京街道に沿って南北約10町、東西約1町の規模で、堤上部分(宿の南半分)と平地部分(宿の北半分)からなる一筋町を形成していた。
享保13年(1728)の記録では家数177軒、人数752人。明和5年(1768)の記録では家数205軒、人数816人であった。尚守口宿には本陣1、問屋2、問屋場1があったが、脇本陣はなかった。
大坂から2里の近距離にあるため、旅人の泊休は少なく、西国大名は西国街道を利用し、17世紀末からは淀川舟運に30石舟が登場したこともあって、交通量は少なかった。
しかし、この守口は米・菜種・綿花などの農産物の集散地として重要な機能をはたし、商業活動の活発だったところであった。守口宿の南の端は本町一丁目の義天寺辺りで、下見附のあったところといわれている。
本町橋より北の旧京街道には、宿場の面影が随所に残されていた。土蔵を利用しての新聞販売店、修理中の伝統的な家は商家で切り妻造り、黒漆喰塗り込めの虫籠窓のある中二階、平入り、出格子であった。その他卯建の上がった家、白漆喰塗りこめの中2階建て、虫籠窓、平入り、出格子の商家の建物や 商家のたたずまいが京街道の両側にしのぶことができる
堤の中程に「なら・のざきみち」の低い道標があり、2m足らずの石畳の路地(一部石段)のような道で、注意していなければ道標も道み見過ごす。その先旧京街道は国道1号線と交わるが、この辺りには高札場もあったといわれ、問屋場、本陣もあったところだが、いまは大きな商家らしい建物と土蔵を残すのみになっていた。また、約27.7kmあった文録堤も度重なる淀川の改修工事でその多くは姿を消し、現在ではこの守口市本町に往時の面影をとどめているだけである。
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参考文献
  大阪府の歴史散歩下  山川出版社  大阪府の歴史散歩編集委員会  1990年
  淀川往来/向陽書房  上方史蹟散策の会  昭和59年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会

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