大阪府の南西端に位置するこの集落は、古代から淡路・阿波国への海上交通の要所であると同時に、紀州と和泉間の主要路にあたっていた。
中世では京都賀茂別雷社領(上賀茂神社)であった。万葉集・大和物語・続日本記にも名前が出てくる古くから知られた場所であった。集落は大川河口部近くにあり、孝子峠を越えて和歌山に向かう道と海岸線を加太に向う道との分岐点であった。 江戸時代を通じて漁村としての性格と、大坂〜江戸間航路の寄港地としての性格が強かった。商品作物として綿作があるが、和泉瓦の生産も揚げられる。瓦の生産開始の起源については不明であるが、慶応年間(1865〜68)に当時の代官が勧業に尽力し、その生産の隆盛に貢献している。 明治12年の「共武政表」によると戸数336・人口1,529、魚類を産物としているとある。 明治22年の人口1,577人。明治42年の戸数401・人口2,297であった。 今 集落内を歩くと、道の狭い漁村集落であるが、入り母屋造りの重厚な大型建物も多く残っている。多くは明治期以後に建てられた本瓦葺きのどっしりした建物だった。大都会大阪に近いところだけに、今では漁業で生計を立てて居られる方が少ない様で、小学生・中学生等の下校風景が多く見られた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名編纂委員会 昭和58年 大阪府の地名U 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1986年 |
深日の町並 |
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