天然の良港福良湾の北・西の沿岸部に位置し、鳴門観潮船の発着場である。湾岸部は市街地を形成している。 律令時代から四国との窓口であって、四国に渡る重要な湊であり、避難湊としても重要であった。水陸交通の要地であり、中世には水軍の拠点でもあった。 慶長15年(1610)池田忠雄領、元和元年(1615)からは阿波国徳島藩領となる。阿波からの玄関口、また海産物の供給地として江戸時代には重要拠点としての役割を果たしていた。 「蜂須賀治世記」の撫養岡崎村の項に「福良の渡海三里、渡海舟頭十人、(中略)此渡海鳴門のすし也」とあり、撫養・福良のそれぞれの10人衆によって渡海運営が行われていた。 阿波から上方などへの航路が天候不良によって遮断された場合、撫養から福良浦へ渡海後、陸路で淡路を縦断し畿内へと旅程を進める。そのため福良浦には御屋敷(陣屋)と御船屋も設けられていた。 慶安2年(1649)の棟附帳によると棟数310・男633、船数66。反別戸数取調書によると家数870・人数3,293とある。 江戸末期には漁民人口の増加に伴い漁場紛争も発生、天保14年(1843)と嘉永2年(1849)に土佐泊浦との間に漁場紛争が起こり、訴訟問題となっている。 最近まで四国と淡路を結ぶ汽船の発着場として栄えていたが、今では大鳴門橋にこの使命を譲り、鳴門観潮船の発着場として賑わっている。 今、福良は甲・乙・丙に分かれている。今回訪ねたのは福良乙で福良港最奥部の西側沿岸部である。町並みから商店街の形式が残っているが、漁業や水産業を生業としている地域のようだ。切り妻造り平入り、中2階建て・2階建ての商家建物が点在する落着いた町並みを形成していて、見応えのある町並みだった。 兵庫県の歴史散歩下 山川出版社 兵庫県高等学校教育研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 兵庫県の地名T 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1999年 |
福良乙の町並 |
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