南あわじ市阿那賀の町並み
阿那賀
地図


阿那賀の町並
 南あわじ市阿那賀は渦潮で有名な鳴門海峡に面している漁港であり、阿波へ渡る福良港の予備港として機能していた。
「兵庫北関入船納帳」に「あなか」の船の入港が2回見え、一つは文安2年(1445)2月3日で積み荷は三原塩。もう一つは同年12月29日で積荷は米とあるのをはじめ、「兵庫関雑船納帳」にも薪材を積んだ「あなか」の船がしばしば兵庫に入港したことが記載されている。
この地は阿那賀浦と云われ、慶長15年(1610)池田忠雄領、元和元年(1615)からは阿波国徳島藩領となる。寛文13年(1673)の阿那賀浦棟附帳によると、家数96・人数男214、船数27とある。又、反別戸数取調書では家数205・人数851とある。
阿那賀浦の阿波徳島藩有林は阿波の塩田の燃料供給のため重要視され、寛永年間(1624〜44)より植林と間伐の山林経営を商人に請負わせ、元禄16年(1703)に阿那賀の五郎兵衛(山口屋)が請負った。そして山口屋は海運業・あらめ製造などの多角経営で成長し、明和5年(1768)頃には藩有林の払い下げを受け、淡路一の山林王となっている。
明治に入り阿那賀村の家数・人数は明治24年330・1523。明治40年342・1798。大正14年396・1971。
昭和40年阿那賀港と徳島県鳴門市瓶浦(亀浦)港を結ぶ淡路フェリーボートが開通、翌41年国道28号と阿那賀を結ぶ南淡路有料道路うずしおライン阿那賀線が開通。これによって淡路と四国を結ぶ車の流れが淡路フェリーに集中し、阿那賀は活況を呈した。
阿那賀は漁業と観光の町として脚光を浴びたが、昭和60年大鳴門橋の開通により、淡路フェリーが大幅に縮小され、阿那賀は元の漁港となり、豊富な魚種の漁場として、とりわけサクラダイと鳴門ワカメで知られている。
集落を歩くと漁村・漁師町としての佇まいは少なく、どっしりとした本瓦葺きの重厚な建物が連なる。明治期〜昭和期にかけて仲野理一郎が鰯網の改良、遠洋漁業の奨励、三原郡の煮干鰯の宣伝などを行い漁業振興に貢献した結果、この集落が大いに潤い、今に本瓦葺きの大型家屋の集落が残っているのである。
尚その上に最近建築された建物も、伝統的な様式を受け継ぎ、本瓦葺きの屋根になっている建物が多く見受けられる。各地の古い町並を歩いているが、これほど多くの家が本瓦葺きで新築されたのは見たことがない。海岸に近く風が強いのは判るが、どうして本瓦で葺かれるのだろう。やはり伝統を重んじるためだろうか。
町並み指数 30
参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63年
  兵庫県の地名T  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1999年            

阿那賀の町並

阿那賀の町並(本瓦葺きの集落)

阿那賀の町並

阿那賀の町並(本瓦葺きの集落)

阿那賀の町並

阿那賀の町並

阿那賀の町並
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