金物の町三木市の名前は全国に知られている。昭和10年には金物神社まで創建され、今でも毎月第一日曜日には、ふいごを使い古式ゆかしく金物を鍛える古式鍛錬の実演が行はれているほどである。 上の丸町にある三木城跡は、長享2年(1488)、別所則治の築城と云われている。別所氏は東播磨最強の武将として守護赤松政則を助け、この城を拠点として、落城・回復・自立を繰り返しながら次第に勢力を拡大していった。 4代別所長治が織田信長に背いて羽柴秀吉との合戦で、天正8年(1580)秀吉の糧道絶ちの戦法により三木の干殺しといわれる落城を見た。 この戦いで破れた三木の町は大きく破壊されていた。そこで秀吉は緒役・地子銭(税金)の免除の特権を与えて、四散した町民を集め町の復興に努めた。この特権は江戸時代になっても引き継がれた。 関ヶ原の戦い後の慶長5年(1600)には姫路城主池田輝政の支配下となるが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となる。 地子銭免除の特権のある町方は大塚町・芝町・平山町・東条町・滑原町の上五ヶ町と新町・赤石町・上町・中町・下町の下五ヶ町であった。これにより三木の町には大工職人が各地から集まり、寺院や家屋の復旧にあたり、三木の町はすばらしい発展を見た。大工職人の集中は大工道具鍛冶の発生・発展を促し、今日の基礎を築いたものと思われる。 延享元年(1744)の三木町緒色明細帳によれば、戸数は791軒でこの内職人295人・商人131人・酒造屋17を数えた。職人の中で圧倒的に多いのは大工140軒で、いずれも「他国へ罷出かせぎ申候」と記されている。 大工職人140軒の他に木挽26軒・樽屋48軒があり、三者とも金物道具を必要とすることから以後の鍛冶業の発展を促したと思われる。 三木金物が史料的に明かになるのは寛延元年(1748)の銑鍛冶・釘鍛冶・やすり鍛冶が初見であり、天明3年(1783)には三木の仲買人が鋸の大坂搬入をめぐって、大坂の株仲間から訴えられるまでに成長していた。 寛政の仲間定法控えによると、寛政4年(1792)にはすでに道具屋善七・作屋清右衛門ら5軒が仲買問屋を結成し、鋸・鉋等の大工道具類を主に、庖丁・剃刀・鋏等から野道具までを商っていた。この内、作屋(黒田家)は代々清右衛門を名乗、現在も金物問屋として在続している。 三木金物は寛政期(1789〜1801)に最盛期を迎えている。寛政4年(1792)黒田家文章によると、鋸鍛冶だけで39軒、これが文化2年(1805)には50軒を越え、文化12年(1815)には79軒にもなっていた。 本町一丁目の旧街道筋に三木の鍛冶仲間問屋で、寛政4年(1792)には、すでに名を連ねていた作屋 黒田家黒田金物店がノコギリの大きな看板を屋根に上げて営業していた。200年以上も同業種で営業を営まれている。この辺りの町並みは三木市を代表する古い町並みで、石畳と電柱を除けば江戸時代そのもののようだ。 兵庫県の歴史散歩上 山川出版社 兵庫県高等学校教育研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 金物のまち三木 三木商工会議所 三木金物パンフレット作成委員会 昭和4年 三木へおいでよ 三木市観光協会 平成9年 |
本町一丁目の金物店 |
本町二丁目の町並み |
本町二丁目の黒田金物店の鋸の看板 |
本町2丁目の町並み |
本町二丁目の町並み |
本町二丁目の町並み |