三木市湯の山街道の町並み
大塚町・芝町・府内町
地図


大塚町の町並
 金物の町三木市の名前は全国に知られている。
三木城主別所長治が織田信長に背いて羽柴秀吉との合戦で、天正8年(1580)秀吉の糧道絶ちの戦法により落城した。これは三木の干殺しといわれるものである。
この戦いで破れた三木の町は大きく破壊されていた。そこで秀吉は緒役・地子銭(税金)の免除の特権を与えて、四散した町民を集め町の復興に努めた。この特権は江戸時代になっても引き継がれた。
地子銭免除の特権のある町方は大塚町・芝町・平山町・東条町・滑原町の上五ヶ町と新町・赤石町・上町・中町・下町の下五ヶ町であった。これにより三木の町には大工職人が各地から集まり、寺院や家屋の復旧にあたり、三木の町はすばらしい発展を見た。大工職人の集中は大工道具鍛冶の発生・発展を促し、今日の基礎を築いたものと思われる。<BR>
延享元年(1744)の三木町緒色明細帳によれば、戸数は791軒でこの内職人295人・商人131人・酒造屋17を数えた。職人の中で圧倒的に多いのは大工140軒で、いずれも「他国へ罷出かせぎ申候」と記されている。
大工職人140軒の他に木挽26軒・樽屋48軒があり、三者とも金物道具を必要とすることから以後の鍛冶業の発展を促したと思われる。

三木金物が史料的に明かになるのは寛延元年(1748)の銑鍛冶・釘鍛冶・やすり鍛冶が初見であり、寛政の仲間定法控えによると、寛政4年(1792)にはすでに道具屋善七・作屋清右衛門ら5軒が仲買問屋を結成し、鋸・鉋等の大工道具類を主に、庖丁・剃刀・鋏等から野道具までを商っていた。この内、作屋(黒田家)は代々清右衛門を名乗、現在も金物問屋として在続している。
三木金物は寛政期(1789〜1801)に最盛期を迎えている。寛政4年(1792)黒田家文章によると、鋸鍛冶だけで39軒、これが文化2年(1805)には50軒を越え、文化12年(1815)には79軒にもなっていた。
三木は「湯の山(有馬)街道・東条街道・明石街道・姫路街道」が通じる交通の要衝で、特に「湯の山(有馬)街道」は山陽道の脇往還として、参勤交代にも使われた街道で、滑原町(本町二丁目)・平山町(府内町)東条町(府内町)や芝町・大塚町等の湯ノ山街道沿いの町並みには昔の街道筋の面影が残っている。
この街道筋には今でも、三木を代表する金物問屋や金物製造業者が軒を連ね、中2階建て切り妻造りの商家の建物が連なっていた。また宿場町の特徴である枡形も昔のまま残り、当時の面影を色濃く残していた。
町並み指数 50
参考文献
  兵庫県の歴史散歩上  山川出版社  兵庫県高等学校教育研究会  1996年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会
  兵庫県の地名U  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1999年
  金物のまち三木  三木商工会議所  三木金物パンフレット作成委員会  昭和4年
  三木へおいでよ  三木市観光協会  平成9年


大塚町の町並

大塚町の町並

芝町の町並

芝町の町並

府内町の町並

府内町の民家
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