神戸市北野の町並み
北野町・山本通り
地図


山本通り(異人館通り)の町並、左 シュエケ邸・右 門兆鴻邸
  神戸は大震災に見舞われて、観光客で賑わっていた北野の異人館街も大変な被害を被った。30数棟残っていた洋風建築が震災で姿を消し、現在では20数棟が残るだけになってしまった。
安政5年(1858)の日米修好通商条約、オランダ・ロシヤ・英国・フランスとの修好通商条約にともない、幕府は神奈川・長崎・兵庫・函館などを開港地にした。しかし兵庫はその後の経緯で神戸に変更された。神奈川は江戸を、長崎は江戸時代を通じて僅かに開かれていた窓だったし、兵庫は京都・大阪を、函館はロシヤを見据えての開港地の選択だった。
そして慶応3年(1867)に神奈川・長崎・函館より遅れて、神戸港が開港され、小さな漁村だった村が、にわかに国際都市への道を歩きはじめた。
開港とともに外国人の居留地が港近くの、今の市役所西側から三宮にかけての7万坪の土地が当てられた。そして各国の領事館や外国人の住宅が建ち並び始めた。
神戸港が開港された慶応3年(1867)から明治32年まで、日本の行政区域外の治外法権の地であり、外国人による自治が行われていた地域である。外国人居留地は神戸の他、大阪、東京、長崎、横浜などに設けられたが、外国人の自治がうまく機能したのは神戸だけであったというが、これが下手をすると国の植民地化のきっかけになる危ない存在であったが、日本では中国のようにならず、幾らかの西洋館を残して観光地になったのは幸いであった。
明治6年になると区画整理もおわり、まるでヨーロッパの小都市をそのまま移してきたような風景が現れた。また神戸港の貿易は急速に発展し、明治中期には横浜と肩を並べるまでになり、多くの商館や倉庫などが建ち並び、住宅を建てる余裕がなくなり、居留地の北側の山手に「雑居地」が設けられたので、外国人は神戸市街や港を望む環境の良い山手地帯の北野町や山本通りに移り住んだ。
この地区に外国人の住宅が建ち始めたのは、明治20年代以降で、最盛期の明治30年代には北野地区だけでも200棟余りを数えたといわれる。いずれも木造二階建て、外壁は下見板張り、ペンキ塗装、ベランダ、張り出し窓、よろい戸、テラス付きのハイカラなスタイルを特徴とした。設計は外国人だし、金具・タイル・ガラス・陶器製の設備材料などは輸入したもので、建物の細部に見られるこだわりは、日本人が建てた洋風建築と明らかに違っていた。
現在北野町、山本通りに残っている異人館は、A,Nハンセル(英)、G,Dラランデ(独)らに代表される外国人建築家によって建てられた木造洋館で、殆どが明治20年より大正はじめ迄のものだ。居留地の建物が商館や倉庫、ホテルをはじめ多種類で、また職住兼用も多かったのと違って、これら山手の洋館は専用住宅として建てられた。現在20数棟が残るだけとなってしまったが、それぞれの建物が個性的な姿を見せ、異国情緒豊な当時の面影を偲ばせている。
現在15軒ほどが公開されているが、どれも個性的な特徴のある建物ばかりである。「風見鶏の館」「萌黄の館」「うろこの家」「ラインの館」「シュヱケ邸」などユニークで特徴の多い異人館である。
その中で「風見鶏の館」と「萌黄の館」について記載すると、「風見鶏の館」(国重文)はスレート葺三角屋根の尖搭に立つ風見鶏は北野町・神戸市のシンボル。明治42年にドイツ人ゲオルグ・デ・ラランデの設計で建てられた旧トーマス邸で、この地区唯一のレンガ造りのドイツ・ゴチック様式の異人館。高い天井、広い部屋とドイツ建築の特徴を見ることができ、全ての部屋の天井のデザインが異なる。
「萌黄の館」(国重文)はくすの木に囲まれた淡い鶯色の外壁の館。明治36年建築の旧シャープ邸。推定であるが設計したのは英国人ハンセル。寄せ棟造り、桟瓦葺きの木造2階建て。明治19年から明治41年まで神戸に住んだアメリカ総領事ハンター・シャープの邸宅。その後小林家住宅となり、近年建設当初の姿に復元されて公開されている。
町並み指数 60
参考文献       
  兵庫県の歴史散歩上  山川出版社  兵庫県高等学校教育研究会  1996年
  歴史の町並みを歩く  保育社  高士宗明  平成6年
  歴史の町並み事典  東京堂出版  吉田桂二  1995年
  町並み・家並み事典  東京堂出版  吉田桂二  昭和61年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63年

北野通りの町並み

門兆鴻邸(非公開)

ラインの館(ドレウエル邸)

ウロコの館(ハリヤー邸)

風見鶏の館(トーマス邸)

萌黄の館(シャープ邸)
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