神戸市北区淡河町の町並み
淡河本町
地図


淡河本町の町並

  神戸市北区淡河町と地名だけ聞けば、都会だと思うだろう。でも電車などの交通機関のない全く陸の孤島といっていいくらい田舎である。
天正7年(1579)に当地を支配した秀吉は早速「淡川市庭」を楽市とするなどの掟条を出して商売を保護し、天正8年(1580)に淡河城には秀吉に従った有馬則頼を送りこんだ。
関ヶ原の戦い後の、慶長5年(1600)に徳川家康は播磨一国52万石を池田輝政に与え、淡河城の有馬則頼を攝津三田に移した。播磨国の主要な地域に支城(三木・明石・高砂・龍野・平福・赤穂)を置き、一族や有力家臣を配置した。淡河城は有馬氏の転封によって城主を失い、後の元和元年(1615)の「一国一城令」によって取り壊された。
池田氏時代の淡河町の支配は、福王次左衛門と記した史料があり、福王氏が、池田氏の奉行として淡河町の支配を行っていたようであり、池田氏の淡河支配は、豊臣氏時代からの湯山街道の宿場町としての機能を存続させていたのである。
元和3年(1617)に淡河の領主であった姫路藩主池田光政が、因幡国鳥取に転封され、その後この地方は中小諸藩によって支配された。淡河は明石に入部した小笠原忠真の領地となった。以後、淡河は明石藩領として明治の廃藩まで続くのである。明石藩主は度々交代したが、天和2年(1682)に入部した松平直明以後定着した。
明石藩領となった淡河は、池田姫路藩領時代に続き、宿場町として存続した。明石藩主となった代々の大名は、そのまま諸役免許の特権を認めている。
明石藩領時代で正保3年(1646)や天和2年(1682)の史料では、当時の人口を知ることはできないが、享保年間(1716〜36)といわれている「明石記」には淡河戸数93軒、人数445人。叉、宝暦10年(1760)頃の史料によれば122軒、人数532人と記されている。
明石藩領となったが、湯山街道を利用するより、西宮−兵庫−大蔵谷を経由する山陽道の方を利用するものが多くなり、次第に街道としての機能を低下させたが、有馬温泉の湯治客の大半は、この湯山街道を利用していたと思われる。
湯山街道の宿場、淡河は豊臣秀吉によって整備されたが、この時に秀吉の命を受け、宿場町建設に活躍したのが村上喜兵衛であった。この功績により、淡河の大庄屋を勤めるようになった。
そして、徳川幕府になっても大庄屋職は代わることなく、淡河の成立以来延享3年(1746)まで約170年間大庄屋を勤めている。そして以後約80年の空白の後、天保元年(1830)から再び大庄屋役を勤め、本陣職として淡河宿の中心となっていたようである。
今、その本陣跡は残っているが、大きな屋敷と建物が無住のままで、手入れもされなくて朽ち果てるのを待っているようだ。本陣跡には「湯乃山街道淡河宿本陣跡」と石碑が建っていて、近くに「南 山田兵庫、 東 有馬大坂、 西 三木姫路」と書かれた石の道標が立っていた。
本陣跡の建物は入り母屋造りで中2階建て、真壁造りであり、敷地の大きさは歩測すると間口約50m弱、奥行き40m位の広大な敷地に主屋や土蔵など多くの建物が残されていた。
町並みを歩くと、あちこちに伝統的な建物が残っているが、一般的な街道筋の商家の建物でなく、豪農の家という感じである。しかし、どの伝統的な広大な家も無住になっていて、朽ちるのを待つばかりで、何とか対策を講じて欲しいものだ。                                     
町並み指数 30
参考文献
  兵庫県の歴史散歩上  山川出版社  兵庫県高等学校教育研究会  1996年
  北区の歴史  北区役所まちづくり推進課  平成8年
  神戸市史歴史遍V  神戸市  新修神戸市史編集委員会  平成4年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  


本陣跡の建物

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