道場町は三田と有馬の中間に位置する交通の要衝であって、太古より南北朝の頃までは丹波街道、江戸時代には大坂街道の要地として栄えてきた。 道場村は戦国時代の末期には有馬豊氏の領地であったが、文禄3年(1594)から山崎続政の領地となる。慶長8年(1603)からまた有馬氏の領地となり、元和7年(1621)からは代官の支配地となり部落ごとに相違がある。 道場川原村(今の道場町道場)は代官竹部興十郎氏の所管となり、貞享3年(1686)より保科弾正忠の領地となり、 明治維新を向えた。 日下部村(今の道場町日下部)は元和7年(1621)有馬氏の転封までは、道場川原村と同じであるが、その後代官村上孫左衛門の管地となり、寛永3年阿部備中守の領地になり、正保4年に幕府の直轄地となって代官松村吉左衛門の所管に移り、その後代官の支配下となる。延享4年、田安家の所領となり明治維新を向える。 道場川原は康安元年(1361)赤松氏範が築いた佐々城の城下町であったようだが、交通の要衝に位置するので宿場町に変貌していったのだろう。その頃は三田や生瀬より盛況だったようだ。 道場川原と日下部との境の街道は枡形になっていて軍事的な構成になっていることからも、道場川原が宿場町であったことが理解できる。 日下部の街道筋は宿場に移行してから新しくできたもので、それは延宝の検地から弘化の検地に至り急激に屋敷数が増えていることで判る。 慶応2年(1866)、篠山藩主が将軍付きとなって赴任する節の一行1200人の内、600人の宿泊を道場川原が割り当てられている。またその年に丹波田辺藩主(三万五千石)の一行を道場川原が引き受けている記録があることから相当賑わった宿場であったようだ。 町並みは街道に沿って両側に展開する。町並みに沿って国道176号線が有馬川の堤防上を通ったために、街道筋の町並みはそのまま保存され、今に多くの伝統的な家屋を残している。 古い町並みは道場橋から南へ続き、日下部町の日下部公園近くまで続く。道場と日下部の境界では街道が枡形に折れ曲っていて、防衛の為に見通しを避けている。 町並みの家屋は商家の建て方で、農家建築とは異なり、宿場町・街道町であったようだ。 大坂街道とは三田から横山を越えて道場川原・日下部を経て、平田から山口村、塩瀬村へ抜ける道路であり。この街道で特に道場川原から北へ抜ける道筋を丹波街道といった。 有馬郡誌下 有馬郡誌編纂委員会 昭和49年 北区の歴史 北区役所まちづくり推進課 平成8年 北攝道場の史話 家歴和啓出版 西本信一 昭和54年 神戸市史歴史遍V 神戸市 新修神戸市史編集委員会 平成4年 |
道場の町並み |
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