神戸市有馬温泉の町並 
北区有馬町
地図


有馬温泉の町並

  有馬温泉の最古の記録は『日本書紀』で、舒明3年(631)に舒明天皇が行幸して入浴したとある。
有馬の湯が広く知られるようになったのは、奈良時代に温泉の医療効果を認めた僧行基が神亀元年(724)に温泉寺を建立し温泉を再興した。『古今著聞集』には、「行基菩薩、もろもろの病人を助けんがために、有馬温泉にむかひ給ふ」と記されている。
平安時代には、白河法皇・後白河法皇が行幸されておられるが、承徳年間(1097〜99)に山津波の被害をうけて、約1世紀ほどさびれていたが、平安時代の末の建久2年(1191)から鎌倉時代にかけて、大和国吉野河上高原寺の住職仁西上人が温泉を再修し、薬師如来を守る十二神将になぞらえて、12の坊舎を建てた。「坊」の名のつく旅館が多いのはこのためである。
鎌倉時代から室町時代は有馬温泉の賑わった時代であった。しかし享禄元年(1528)と天正4年(1576)の2度の大火で荒廃してしまった。それを天正13年(1585)に豊臣秀吉が修築し、秀吉自身も以後文録3年(1594)までに10回位は訪れ、温泉寺阿弥陀堂で茶会を催している。また文録3年(1594)には御殿を建て入湯に来ている。
ところが慶長元年(1596)の大地震で御殿も温泉も被害を受け、御殿は大破し、温泉も熱湯となって入湯が出来ない状態となった。そこで秀吉は慶長2年(1597)早速修築復興させ、元湯の場所も一般に開放したので有馬の湯は面目を一新した。こうして江戸時代には貝原益軒が「有馬湯山記」で紹介したように多くの人々の湯治場として繁栄した。
最盛期の文化文政期(1804〜30)には有馬千軒と言われたほどで、かくて今日に及んだのであるから、有馬に対して秀吉は行基・仁西に劣らざる大きな功績を残したのである。
有馬の変遷を戸数で見ると、足利時代文正元年(1466)の「蔭涼軒日録」では6〜70軒で、この時代としては実に盛んな温泉場であったと思われる。しかし、江戸初期の元和3年(1617)には戸数40戸としてあるが、これは戦乱のようやく収まったばかりの時代であるから、湯治に行くものなど少なかったからであろう。江戸の中期の元文2年(1737)には87戸、その後は次第に繁栄して文化・文政期には最盛期を迎え戸数800戸であるから、まさに有馬の黄金時代を迎えたわけである。
明治初年には400戸となって文化・文政期から半減しているが、これは明治維新の混乱期の後で湯治などを考えない時代だったからだ。そして明治18年には402戸、湯治客一ヶ年平均8000人となっている。大正4年には310戸、昭和11年には361戸である。殆どの家は旅館及び土産物商店かそれに関係する職業で、とにかく湯治客と関わりある職業であった。
現在では、近代的な大きなホテルや企業の保養所が乱立した一大保養地となっているが、温泉街の中心部には、趣を残した木造の温泉旅館やみやげ物屋が軒を連ねている。温泉会館から林渓寺前を通って六甲川に続く約600mの道が有馬本街道。細いつづら折りの坂道で、道筋には昔ながらの格子戸の家や古い看板の有馬名産の店が並び、両側から木造の伝統的な民家の屋根がかぶさり、空が少なくまるでトンネルの中を歩いているようだ。かってはこの本街道が一番賑わっていたのだろうが、今では、伝統的な民家の町並みも約100m弱で、「右六かう山へ、すぐ京大坂へ」と刻まれた石の道標も、住宅街の中にポツンと立っていた。
町並み指数 50
参考文献    
  兵庫県の歴史散歩上  山川出版社  兵庫県高等学校教育研究会  1996
  神戸市史  神戸市  神戸市史編纂委員会
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年

有馬温泉の町並み

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