岸和田市の町並み
本町・南町・宮本町・北町・堺町・中町・魚屋町・岸城町
地図


本町の町並み
 織田信長は天正3年(1575)紀州の根来・雑賀衆および紀泉の一向一揆の討伐を試みたが、天正10年(1582)に京都本能寺で明智光秀の謀反のため討死した。その後を継いだ豊臣秀吉は、天正11年(1583)中村一氏を岸和田に配置し、泉南・紀北の一向一揆の押さえとした。
秀吉は天正13年(1585)10万の大軍を率いて同地の平定を行った。同13年中村一氏が近江水口へ転封され、代わって小出秀政が岸和田に入封した。
小出氏は天守閣を築き、3代にわたって岸和田に在城したが、元和5年(1619)には丹波篠山より松井康重が5万石で入ってきた。その後、寛永17年(1640)に岡部宣勝が攝津高槻から入封筒し6万石を領し、以来幕末まで岡部氏の支配が続いた。
松井康重のとき城下町が整備されたが、岡部氏入封後、城は大規模な修築がなされた。岡部氏は代々新田開発と産業の奨励に努めたが、産物に恵まれなかった。でも商都大坂に近く、紀州街道を利用した陸上輸送に加え、岸和田港による海上輸送の便があり、商品流通経済の影響を強く受けて、物資集散の地として栄えた。
岸和田は江戸期には、城下・浜方(岸和田浜町)・村方(岸和田村)に区分されていた。本格的な城下の配置は岡部氏入封以後のことである。城下は野村石橋から南町石橋まで15丁で、その中に本町・堺町・魚屋町・北町・南町があり、寛文8年(1668)から新屋敷拡大により並松町ができてこの六町が城下であった。
町屋は紀州街道筋両側に造られた。武家屋敷は城内に家老を筆頭とする上級武士層、堺町・南町・北町に中級武士層、南町・並松町には下級武士層、他に足軽・中間・水主・御用職人などに分けて住まわせた。
天明年間(1781〜89)の「古今重宝記」によると、城下478軒、岸和田浜町300軒、岸和田村200軒となっている。
鬼洞泉州志によると江戸期の当地(村方)の主産物は木綿で、和泉木綿として綿糸や綿布の原料となっていたようだ。
今、古い町並みは本町・南町・北町・堺町・中町・魚屋町・宮本町・岸城町などに展開する。
その中でも特に旧紀州街道沿いの南町・本町・魚屋町には商家の伝統的な建物が連なる。
また岸城町では、練塀の武家屋敷の町並みや町割りがそのまま残り、土塀に囲まれた大きな屋敷の町並みが連なる。曲がりくねった細い小路に土塀が連なる様は、金沢市の長町にも匹敵するようだ。
旧紀州街道沿いの本町筋は商家の建物の町並みが連なり、中には何層にもなった屋根を持つ豪邸もあり、大坂との交易で富を蓄積したのだろう。
古い町並みを形成する本町を始とした町々の道は城下町当時のままで、軽自動車も通れない路地の道も多かった。
岸和田を有名にしている「だんじり祭り」は、元禄16年(1703)頃から始まったようだが、明確に判るのは延享2年(1745)以降である。各地から繰り出された地車は数多くの提灯で飾られ華やかである。
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参考文献
   大阪府の地名  平凡社  下中邦彦  1986年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和58
   大阪府の歴史散歩  山川出版社  大阪府歴史散歩編集委員会  1990年


南町の町並み

本町の町並み

宮本町の町並み

岸城町の土塀の町並み

本町の町並み

本町の町並み
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