城崎町の町並み 
城崎町湯島
地図


城崎町湯島の町並
  平安時代の初期にはもう当時の代表的歌人である、藤原兼輔が来遊し詠んだ和歌が古今集に収められているほど、古代から開けた但馬の湯として都人にも知られていた。
室町期から戦国期には山名氏の支配下であったが、天正8年(1580)羽柴秀吉が山名氏を倒して但馬を平定し、豊岡城には秀吉配下の宮部善祥房、次いで木下助兵衛尉、尾藤知定、明石則実、福原直高と相次いで交替し、慶長2年(1597)杉原長房が入封した。杉原氏は承応2年(1653)断絶し、その後は幕府領となる。寛文8年(1668)丹後田辺から京極高盛が入封し、豊岡藩となるが、享保12年(1727)再び幕府領となり、湯島に代官所が置かれた。
同代官所は元文5年(1740)に廃止となり、以後明治まで生野代官所、または久美浜代官所の支配下に属した。
江戸期、泰平の世となると、京都・大坂をはじめ関西各地からの入湯客が次第に増え、多くの知名人も来遊した。京の医師香川修徳はその著書「一本堂薬選」で温泉の効用を述べ、但州城崎新湯を最第一とすと激賞している。
当地の湯には新湯・二ノ湯・三ノ湯・中ノ湯・常湯・御所ノ湯・まんだら湯のほか露天では鴻ノ湯・地蔵ノ湯などがあった。この頃の入湯は物見遊山よりも病気療養のための湯治が主であったことから、当時は宿屋といっても長期滞在者のための貸部屋式のものが多かった。寛延2年(1790)宿屋は17軒を数えたが、幕末期には63軒となり、宿屋組合も結成された。
家数は江戸期を通じて300戸内外であった。明治7年の村限調書によると家数320軒、人数1,329人となっている。
享和2年(1802)の菱屋平七長崎紀行によると、当時の様子を「此所ハ一筋の町にて、町の中通に細き溝川あり、上の町・中の町・下の町、合わせて人家二百五六十軒、宿屋大小合わせて十軒あり、下の町井筒屋六郎兵衛を大家とききて、尋ね入て滞留の宿と定む」「宿を出て町を西の方に行バ、町幅狭く町並ハ悪し、されど三階造の大なる宿屋、或ハきれいなる小間物屋、また麦藁細工の職人など多し‥‥」と記されている。
今の城崎温泉は日本国内で殆どなくなってしまった、温泉情緒の味わえる温泉地だ。温泉街の中を旅館の下駄履き、浴衣姿でカラコロと下駄の音を響かせて、外湯巡りや土産物屋巡りができる貴重な古い温泉地の情緒を残す町である。
温泉街の中を流れる大谿川の両側の柳並木と木造3階建ての建物が続く町並と、石造りの太鼓橋で形成される温泉街の光景。これらの光景は城崎温泉の成り立ちと大きく係わっている。
前述の菱屋平七長崎紀行から、江戸時代後期には宿屋は大小合わせて10軒ほどであったが、明治時代になると60軒に増加、浴客も明治20年には7,450人を数えた。
明治42年に山陰鉄道(現JR山陰線)城崎駅が開設されて、入湯客は急増した。それまでは6湯19槽であった外湯(共同浴場)を、6湯38槽とし、旅館も新築・増築や別館が造られ、大正時代に入っての宿泊客はさらに増加した。
古来から城崎温泉では、内湯(旅館内に浴槽を設ける)をせず、外湯(共同浴場)主義を貫いてきた。大正14年に北但大震災が起こり、温泉街を焼き尽くしてしまった。そして震災後の寂れた城崎に浴客を誘致するため、昭和2年に一高級旅館が内湯を設けようとしたことから、内湯問題が起こり23年間もの長期抗争へと発展した。
それも昭和25年に泉源は温泉区で管理し、内湯・外湯の併設を認めることとなって和解が成立し、泉源の開発を行い今では殆どの旅館に内湯が設けられている。
でも、今でも城崎温泉の温泉情緒は昔のまま残っていて、下駄の音を響かせて七つある外湯通いは観光客の大きな楽しみの一つである。
町並がどうして木造3階建てなのかは疑問のままだが。
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参考文献 
  兵庫県の歴史散歩下  山川出版社  兵庫県高等学校教育研究会  1996年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63年
  兵庫県の地名T  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1999年

城崎町湯島の老舗旅館

城崎町湯島の町並

城崎町湯島の町並

城崎町湯島の町並

城崎町湯島の町並

城崎町湯島の町並

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