ここ交野市は京都と大阪のほぼ中間に位置し、古くから交通も発達していて、枚方宿にも近く開けた農村であった。私の訪ねた倉治と私部について記載すると、私部村の江戸時代は、西株と云われる旗本畠山領は元和5年(1619)から江戸時代を通じて、東株と云われる所は寛永10年(1633)から大坂町奉行役知、元禄3年(1690)幕府領、元禄7年(1694)相模小田原藩大久保氏領で明治を迎えた。 延宝7年(1679)西株の家数120軒、元禄4年(1691)東株の家数65軒だった。明治9年の私部村の人数は1,192人。 倉治村の江戸時代は元和5年(1619)から旗本久貝氏知行、文久3年(1863)幕府領、慶応元年(1865)から再び旗本久貝氏知行となり明治を迎えた。明治9年の倉治村の人数は886人であった。 私部村・倉治村の両村とも農業生産の中心は稲作であったが、綿・菜種・麦・煙草などの換金作物が栽培されていた。元禄4年(1691)私部村の明細帳によると、当時すでに油粕・干鰯・綿実・などの購入肥料の利用が一般化されていた。 また、農村産業として酒造・絞油・素麺製造などが展開されていた。酒造家は私部村で9名・倉治村で1名が酒を造っていたが、摂津国の酒造家と異なり、小規模な地売型の酒造家が村々に散在していたようだ。 菜種栽培が盛んで絞油業も栄え、素麺製造盛んに行われていたようだ。 今、古い町並は私部1丁目・私部5丁目・倉治6丁目で見られ、門構えの入り母屋造り・板塀・白漆喰の重厚な建物が連なる。街道筋の町並で無いから、豪農だった当時の家・屋敷が今に残っているのだろう。 建て方から見て、殆どの建物は明治に入ってからと思われるが、江戸時代の建物も、昭和に入ってからの建物も多くあるようだ。 私部1丁目には領主畠山家の代官職を務めた北田家住宅がある。表門・主屋・乾蔵・北蔵は国の重要文化財に指定されていて、乾蔵の棟札には、享保7年(1722)とあり、主屋はこれより少し前の正徳4年(1714)と推定されている。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名編纂委員会 昭和58年 大阪府の地名U 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1986年 |
倉治6丁目の町並 |
倉治6丁目の町並 |
倉治6丁目の町並 |
私部7丁目の造り酒屋 |
私部1丁目の北田家(国重文) |
私部1丁目の町並 |
私部1丁目の町並 |
私部5丁目の町並 |