香住港は山陰地方有数の漁港で、水産加工業も盛んな土地である。 香住・若松・一日市とも江戸初期は出石藩領であったが、天保7年(1836)からは幕府領(久美浜代官所)であった。香住・若松・一日市とも豊岡から因幡国に至る但馬浜街道が通っている。 一日市で撮影していると、おばあさんが話しかけてきて、私がお嫁に来たときには、この道をバスが通っていたと話していた。 出石封内明細帳()によると、香住村は家数69・人数383。若松村は家数52・人数236。一日市は家数125・人数582と一番多かった。 明治17年の地誌編纂取調書によると、香住村の土地は「みかん・桑・柿に適し、民業十中八・九は農業、商は余暇とし、魚漁は十中一・二に過ぎず」とある。若松村の土地は「地味色赤黒その質乙等を下らずといへども、早魃の害多く稲粱に適するものといふべからず、畑地は赤土あるいは砂漠(砂地)なるをもって桑茶によろしからず、特に甘藷を繁殖するに適す‥‥。民業は漁業者26戸・農工商業者50戸。海浜は白砂青松にして実に郡中屈指の勝景の地」とある。また、一日村の土地は「地味は表面赤と黒色の二様なるも、下底は赤白黒混交の粘土にして、海浜に接近の処は砂漠なり。戸数は170で、民業別内訳は農9・工29・商48・漁60・医者1・教員2・僧侶2など、養蚕製糸等は農工商者兼業す」とある。海から離れた場所の香住村では農業主体の生業であるが、若松・一日市の順で漁業者が多くなっているのが判り、海岸に沿った一日市では約半数が漁業に従事していたようだ。 今、町並を歩いてみると、一日市を通る旧但馬浜街道にそった民家では下見板張りの漁師町の風情が一帯に漂っていて、山陰有数の漁港を持つ漁師町であるのが頷ける。特別大きな商家の建物がある訳でなし、海岸に沿って走る旧街道に板張りの民家や倉庫がひしめき合って並んでいた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 日本の地名 兵庫県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1999年 |
一日市の町並 |
一日市の町並 |
一日市の町並 |
一日市の町並 |
一日市の町並 |
一日市の町並 |
若松の町並 |
若松の町並 |