春日町黒井の町並
黒井
地図


春日町黒井の町並
 春日町黒井は丹波で最も古い城下町と云われている。
黒井城は内藤氏の八木城(現京都府八木町)、波多野氏の八上城(現篠山市)とともに丹波三大山城の一つと言われ、国指定史跡である。
黒井城は建武2年(1335)赤松貞範が春日部庄を与えられた際に築いたと云われる。天文22年(1554)赤井氏から荻野氏の猶子となった黒井城主直正が、天文〜弘治年間(1532〜58)に城郭の全面的な改築補修を行い、城主の下館であった興禅寺を中心とした、城下町の地割も行ったのが、現在に残る町並である。
織田信長の丹波攻略に対して、赤井(荻野)直正の黒井城は八上城とともに最も強い反抗拠点となり、信長の命により天正3年(1575)大軍を差し向けた明智光秀と奮闘善戦し武名をあげたが、天正6年(1578)年病死した。家督を継いだ直義は、天正7年(1579)再び攻めてきた光秀の大軍の前に落城した。そして黒井城は明智光秀の家臣斉藤利三が管理するところとなり、斉藤利三の下館も興禅寺としたため、「斉藤屋敷」とも呼ばれていた。利三の末娘で、後の徳川3代将軍家光の乳母春日局になった「お福」が、この下館で生まれたとも云われている。
黒井は慶長3年(1598)柏原藩領、慶安元年(1648)からは丹波国亀山藩領。天正7年(1579)の落城後も氷上郡の商業の中心地として栄え、亀山藩領となってからも、代官所・郷倉・藩札引替所や郷村庄屋を統率する大庄屋などが置かれたこの地方の中心地であった。
近郷で生産される木綿や木製品の集散地で、寛政2年(1790)には氷上郡最初の海産物市場(魚市場)が常設され、月3回6の日に市が立った。
寛政年間(1789〜1801)刊行の「丹波志」によると、黒井村の戸数は文化2年(1805)で約700軒となっている。安政5年(1858)に大火が発生し、東町、西町、新町、本町、上げ町など285戸が焼失した。
今、この旧黒井城下町を歩くと、周辺地区の農村集落とは異質の町並であることに気付く。
この丹波地方では集落での密集地帯では、妻入りの家屋が多いが、ここ黒井では平入りが多い町並で、旧城下町時代の地割りをそのまま受け継いだ町並であった。
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参考文献       
  兵庫県の歴史散歩下  山川出版社  兵庫県高等学校教育研究会  1996年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名辞典編纂委員会  昭和63年
  兵庫県の地名T  平凡社   (有)平凡社地方資料センター   1999年

春日町黒井の町並

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