北条地区は古くは酒見寺や住吉神社の門前町として、また、小谷城主赤松祐尚が開いたといわれる「古市場」以来の市場町として、又、丹波・丹後・但馬方面への街道筋の宿場町・商業町として古くから町場を形成していた。「いなかなれども北条は都、月に六斎市がたつ」との俗謡は、当時の市場の繁栄を歌ったものであろう。 北条村は戦国期には荒廃したようであるが、江戸初期急速に復興、家数も増加したため、慶長初期(1596〜1615)に寺内村と市場村に分村したとされている。両村とも慶長5年(1600)姫路藩領、正保(1644〜48)頃は幕府直轄領、延宝8年(1680)下総佐倉藩領、貞享3年(1686)相模小田原藩領、延享4年(1747)からは徳川三卿の田安家領となり、慶応4年(1868)龍野藩領、同年また田安家領となり、陣屋も置かれ、明治の廃藩まで続いた。 延享4年(1747)の市場村明細帳では家数255軒・人数1,155人で、毎月二・六の日に市が立ち、薪・柴などが売り出されていた。同年の寺内村明細帳では家数113軒・人数511人で高札場は市場村と一緒であった。 慶安元年(1648)に寺内村から、酒見寺領60石を持って、西寺内村が分村したとされているが、西寺西村は寺内村の一部として扱われることが多い。天保11年(1840)の田安領知村鑑大概帳によると市場村の家数357軒・人数1,278人。寺内村の家数148・人数520人である。 明治11年、市場村・寺内村・西寺内村が合併して北条町ができた。明治13年の戸数540軒・人数1,989人であった。 山陽・山陰の中継地として発展を続けた北条は、山陽鉄道(現JR山陽本線)が町域をはずれて通り、それ以後それまでの繁栄を失ってしまった。 加西市北条町は、加西市の中心部をなす広大な地域である。予備知識なしで訪ねたら、町並みを探し出すのに苦労するだろう。古い町並みは酒見寺・住吉神社の前を通る街道と本町筋、旧町役場で今、加西市団体事務所辺りに古い町並みが残っている。この地には徳川三卿の田安家の陣屋が置かれ、在郷町として発展していた当時の面影の伝統的な商家の建物が各所に連続して残っている。 伝統的な商家の建物は切り妻造り、中二階建て、漆喰塗り込めの虫であり、かっては本瓦で葺かれていただろうが今は殆ど桟瓦葺きになっていた。袖壁も各所に見られるが、煙り出しは見なかったようだ。一階の格子もガラス窓に改造されている家が多かったが、中二階の虫籠窓は比較的多く残っているように思った。 兵庫県の歴史散歩下 山川出版社 兵庫県高等学校教育研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 兵庫県の地名U 平凡社 下中直人 1999年 |
北条町北条の町並み |
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