河南町大ヶ塚の町並み 
大ヶ塚
地図


大ヶ塚の町並

 大ヶ塚は寺内町として相当な発展を見たのであるが、あまり知られていない。
天文年間(1532〜33)農民源左衛門ら4人が、小山とよぶこの台地上の芝地を開き、村名を大河塚としたという。大永年間(1521〜28)には、根来寺の大河将盤が居宅を構えていて、後の永禄年間(1558〜70)初めに根来寺の大将宗繁が城を築き、根来寺衆や近郷の者などが移り住んだ。その後、永禄11年(1568)織田信長の勢力が河内に及び、大ヶ塚の城も敗れて、大将などは根来寺に帰ってしまったが、村人は自衛のため久宝寺村顕證寺(現八尾市)を頼み、大ヶ塚道場善念寺(現顕證寺)を顕證寺の通寺(兼帯所)として、寺内町を形成し、市場も立つようになり、16世紀後半から、寺内町として発展を遂げた。
江戸時代になり、はじめは片桐且元領、元和元年(1615)幕府領、承応3年(1654)京都所司代役知、寛文8年(1668)幕府領、その後は大坂城代役知と幕府領を繰り返し、天保元年(1830)からは幕府領となり明治を迎える。
寺内町は米・木綿・菜種などの集散地として発展し、次第に町場化していった。町場は元禄年間(1688〜1704)には五町に分かれ、南町・西町・市場町・乾町・東町があった。
元禄2年(1689)当村に立ち寄った貝原益軒は「南遊紀行」で「民家五百廿軒あり」と記している。天保5年(1834)の家数人別増減差引帳によると、家数226・人数904。天保13年(1842)の一朱銀員数書上帳によると、綿屋・木綿屋・帯屋・菓子屋・米屋・餅屋・鍛冶屋など48軒が記されている。酒造業も盛んで正徳5年(1715)には米140石もの酒造するものなどが多数いた。
明治5年の戸数238・人数962であるが、明治期になると市場町としては衰えはじめ、各種の復興策を講ぜられたが失敗に終わり、昭和38年の世帯数217と減少している。
今も台地上の大ヶ塚の町並は、かって寺内町から江戸期の繁栄を物語った面影を色濃く残し、周りの農村集落とは異なる景観を呈している。
中2階建て平入りの虫籠窓のある商家の建物。重厚な中にも品格を備えた構えで我々を迎えてくれる。入り母屋造りが多いのは、明治に入ってからの建物が多いためと思われる
町並み指数 40
参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和58年
  大阪府の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1986年

大ヶ塚の町並

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