貝塚市の町並み
北町・西町・中北・堀之内・御坊前
地図


北町の町並

  16世紀の紀泉地方には一向宗が深く住民の間に浸透していた。貝塚に応仁年間(1467〜69)に蓮如が布教に訪ねている。天文14年(1545)には真宗門徒が無住であった草庵に根来寺より右京坊(卜半斎了珍)を迎え、寺内町の建設が始まる。天文24年(1555)に大坂本願寺から寺内成立を認められたが、天正5年(1577)織田信長との摂津石山合戦で町は焦土となった。
その後、いったん離散した住民も次々と寺内に戻り復興に努め、信長より寺内として承認され、本堂も建設された。
天正11年(1583)本願寺門跡顕如・教如らが貝塚に移り、ここを2年余り本願寺とした。以降卜半斎は政権(信長、秀吉、家康)との接近を強め、寺内としての地位を確固たるものとした。慶長15年(1610)に卜半了閑は徳川家康より諸役免許の黒印状をうけ、卜半家が領主として認められてここに寺内地頭としての領主権力が出来あがった。
家老以下40人に及ぶ家来をもって政治にあたり、明治維新までは卜半役所と呼ばれる政庁が置かれていた。この寺は信仰と政治の両面にわたる町の中心であった。
卜半家は自由に寺内の政治にあたり、町民から租税を取り立て、、訴訟もある程度は裁き、軽処刑は独自に執行することができた。
しかし幕末になり、幕府の権威が失墜していくなかで、寺内町でも卜半家支配の権威も衰退していき、維新後、明治4年の太政官布告によって境内地を除く全ての領地は取り上げられて、願泉寺敷地のみになった。
貝塚寺内町は南北約800m、東西約550mの広さをもつ環濠城塞都市であり、西は大阪湾、北は北境川、南は清水川を濠と見立てて、これらをつなぐ形で東に濠をめぐらしていた。
慶安元年(1648)の「貝塚寺内絵図」によれば、紀州街道が願泉寺を避けて浜辺に並行して走ていて、濠の内側には土塁が築かれ、6カ所の出入り口には番所があった。今も街路はほぼ当時のままである。
貝塚寺内に成立発達した産業、工業を代表するのが、廻船業・鋳物業・和泉櫛である。
貝塚は泉南地方の代表的な海運の町として成長した。この廻船問屋の中でも肥料問屋として活躍していたのが西町の広海家である。同家には「メガネ倉」といわれる倉があり、この倉の二階に望遠鏡を取り付けて入り船の到着やその船の種類を見分けていた。現在も当時の商家建築の遺構をのこしている。切妻造り、本瓦葺屋根、平入り、真壁の虫籠窓の付いた中二階、格子、出格子の間口も奥行きの大きい広大な商家の屋敷である。
他の産業としては鋳物業がある。北町の宇野家は、貝塚の鋳物師金屋長右衛門として聞こえていた。18世紀には泉南地方の鋳物師仲間が同家を中心に結成されていた。
次いで和泉櫛(近木櫛)が有名であり、宝永7年(1710)の記録には櫛ひき119名と記されていて、江戸中期には500〜600人の職人が櫛つくりに携わっていた。
町並み指数 50
参考文献
  大阪府の歴史散歩下  山川出版社  大阪府の歴史散歩編集委員会  1990年
  貝塚歴史散歩マップ  貝塚市教育委員会  貝塚市郷土資料室  平成8年
  貝塚市郷土資料室事業報告  貝塚市教育委員会  平成6年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和58年

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