天正3年(1575)には信長配下の明智光秀が丹波に大軍を向けてきたのである。天正7年(1579)に黒井城が落城するまで、丹波地方では織田軍と荻野・波多野氏との戦いが続き、最後には明智光秀が丹波一国を領有した。 天正10年(1582)の本能寺の変後、天下を握った豊臣秀吉は、信長の子で秀吉が養子にしていた秀勝を丹波亀山(現亀岡)城主に据え、荻野氏の拠点だった氷上郡黒井城には重臣の堀尾吉晴を置いて後見役とした。 豊臣氏、徳川氏ともに一国を領土とするような大大名を丹波には置かなかった。京都に近い立地を恐れたためだと言われている。大坂夏の陣の後、徳川家支配が固まってからのことだが、丹波には譜代三藩、外様四藩の計七藩が入り乱れ、その他天領や旗本領、寺社領も存在するなど、多藩少領土の様相を呈した。 柏原一円を支配した織田氏も石高が3万6千石と小規模な大名だった。柏原藩の藩祖は織田信包で、織田信長の弟である。伊勢安濃津城主(上野介)であったが、慶長3年(1598)6月に柏原に国替えになったが、二ヶ月後の8月に豊臣秀吉が死んでいる。 信包は豊臣政権から徳川政権へと移り変わる激動期にあって家を保つことに成功したが、3代目の信勝には子供がないまま、慶安3年(1650)他界し、領地を没収されて織田3代で断絶した。そして領地は、その後45年間幕府領であった。元録8年(1695)に大和宇陀郡から織田信休が転封して柏原へと入り、織田氏のまま明治を向えた。 伝承によれば、陣屋ははじめ大手町・北中町・北町の地域にあったらしい。信休が柏原入りして20年を経た正徳4年(1714)になってようやく本格的な藩主の邸が建てられた。場所は大内山の西麓一帯にあり、それに接して西が屋敷町、その南・西が町人町であった。文政元年(1818)に失火によって陣屋の大部分が焼け落ち、文政9年(1826)信憑のとき再建されたものが現存する国指定史跡の陣屋で、明治4年まで存続した信休系織田藩主十代の居館跡である。 廃藩後は大部分の建物が取り壊されが、再建当初の約五分の一の書院、式台、玄関など公式の部分が残っている。 寛政6年(1794)の家数700軒である。城下町は陣屋前の屋敷町と八幡神社の門前町である町人町とが結合して城下町を形成した。城下町としては慶長3年(1598)織田信包が伊勢国安濃津城主から3万6千石で領主になったときに始まる。 城下町以前からのものとしては、八幡神社の門前町としての古市場町、永享年間(1429〜41)頃には存在していた平井村(現本町)、元和年間(1615〜23)以前の成立を思われる石田村(現石田町)などがある。慶長年間(1596〜1615)の検地以後のものでは、大手町・北中町・北町・南町・西町・堅町・東町が家中と称された武家屋敷町であり、町人町は市中と称して、本町・上中町・下町・寛永17年(1640)成立の新町から成っていた。 今、城下町を歩くと、大手通り、広小路、北之小路、北中之小路、上之小路、中之小路、下之小路、南之小路などにその名を残し、それらの小路を歩いていると江戸時代の武家屋敷さながらの家並みや、格子、土塀といった城下町の面影を、今なお目にすることができる。 兵庫県の歴史散歩下 山川出版社 兵庫県高等学校教育研究会 1996年 柏原町指定文化財図録 柏原町歴史民俗資料館 平成8年 柏原町誌 第三巻 柏原町誌編纂委員会 柏原町役場 平成10年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 |
町役場横 木の根橋の大けやき |
武家屋敷街の町並み |
柏原藩陣屋の長屋門 |
武家屋敷街の町並み |
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町並 |