出石町の町並み
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地図


出石酒造の酒蔵
  出石そば、出石焼き、そして辰鼓櫓(しんころう)で知られる出石町(いずし)。兵庫県の北東部豊岡を流れる円山川の支流出石川に沿った静かな山間に、但馬の小京都と呼ばれる出石の町並みがある。
山名時義は現出石神社の北に子盗(此隅)城を築き但馬の本城とした。永禄12年(1569) 子盗城は羽柴秀吉の但馬出兵で陥落した。天正2年(1574) 山名祐豊は山名氏の勢力を再び結集し、有子山頂に居城を築いた。これが出石の高城(有子山城)で標高320mの山城である。天正8年(1580) 秀吉の弟羽柴秀長に攻められ、但馬山名氏は城と共に滅んだ。
文禄4年(1595) 小出吉英が播州龍野から入封。慶長9年(1604) 有子山から山麓の現在の地に城を移したものである。小出氏は元禄9年(1696)除封により一時廃藩となるが、元禄10年(1697)に松平(藤井)氏が入封再び立藩され、宝永3年(1706) 信州上田城主 仙石越前守政明が入封した後、明治維新に至るまで、出石は260余年にわたり出石藩の五万八千石の本城となり、仙石氏の城下町として栄えた。しかし天守閣は築かれず藩主の居館を本丸に建てただけだった。
有子山麓に4段の城郭を築き、山麓の最高所に天守台を兼ねた稲荷郭を設け、下へ本丸、二の丸、平地に三の丸を置いた。町割りは南端に聳える有子山麓の近くに上級武家町を設け、内堀で囲み、その外側に町人町、その外縁は大川(出石川)と谷山川を通し、さらにその外側に下級武家町を配備し、その外側に外堀を巡らせ町全体を城塞化した。三の丸の大手には蜃鼓櫓が現存している。
天保11年(1840)人数は6768人(町方4393・武家2375)、家数は町方1378。江戸中期の武家屋敷177・武家長屋99。
辰鼓櫓や家老屋敷は今でも城下町の面影をよく残している。藩政時代には毎朝辰の刻(午前8時)に、藩士に登城を告げる太鼓が打ち鳴らされたことから名づけられた。櫓の高さは16mで、現在は櫓の上部に大時計が設置され、町民や観光客に親しまれている出石のシンボルである。
町家は鋳物師町、本町、八木、田結庄、柳などに伝統的な町家建築が多く残っており、碁盤目状に広がる落ち着いた小さな古い城下町だ。
なかでも八木の大きな商家は切り妻造り、二階、中二階、平入り、桟瓦葺、千本格子、駒寄せ、虫籠窓、うだつも上がった重厚で大きな町家である。田結庄の商家は軒庇にガス燈のある重厚な町家で、切り妻造り、平入り、中二階建て、桟瓦葺、漆喰塗り込めの虫籠窓、袖壁、千本格子、駒寄せ、うだつも上がっていた。伝統的な町家建築は切り妻造り、平入り、二階か中二階、桟瓦葺、虫籠窓、千本格子が共通しているようである。
町並みを歩いていると、出石の歴史的遺産は建築物だけでなく、特産品の「出石焼」の窯元や陶磁器店と「出石皿そば」の店が多く見られる。「出石焼」は明和元年(1764)に始まったといわれ、江戸時代藩の奨励などにより発展した。「出石皿そば」の味を引き立てる出石焼は、雪の白さを思わせる美しい白磁で、細かな彫刻を施し繊細かつ温かみがある。
また出石そばは宝永3年(1706)に信州上田城より仙石氏が入封したときに、そば職人をつれてきたのが始まりとされている。
出石酒造の酒蔵は屋根以外壁も扉も全部赤い土壁で、迫力ある景観で日本の風景とは思えない。主屋は切り妻造り、二階建て、平入り、赤土壁に黒い虫籠窓のアクセントがあり、うだつも揚がっていて煙出し、レンガの煙突、桟瓦葺、千本格子であった。そこより東に坂を登っていくと、沢庵漬けを考案した沢庵和尚の中興開山した宗鏡寺(沢庵寺)があった。
町並み指数 60
参考文献 
  兵庫県の歴史散歩下  山川出版社  兵庫県高等学校教育研究会  1996年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63年

八木の町並み

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出石酒造
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