泉佐野市の町並み 
元町・若宮町・大西町・西本町・
本町・栄町・春日町
地図


本町の町並み
 中世において定期市が立っていた佐野は湊も発展し、和泉守護所も設けられていて和泉国南部の政治・経済の中心地となり町場を形成していた。近世に入っても発展は続き元禄期には、食野・唐金などの有力な商人が現れた。
佐野村の南東部を紀州街道が通る。江戸時代は岸和田藩領で、産物として米・綿織物・菜種・甘藷などがあり、農業の発展も見られたが、海運業・漁業の発展が著しく、正徳3年(1713)の家数1,666軒のうち浦方は1,010軒あり漁業従事者が多くを占め、対馬・五島列島辺りまで進出し「佐野網」として知られていた。海運業は和泉国九ヶ浦(岸和田・春木・津田・脇浜・鶴原・佐野・嘉祥寺・岡田・樽井)のなかで最も盛んで、元禄12年(1699)の浦々船数之事によれば、、佐野村所属の船は600石積以上77艘、300石積以上81艘、80石積以上41艘、30石積以上76艘、漁船230艘を所有していた。
また、正徳3年(1713)の佐野村の人数は8,597人で、町場を形成していた。
貝原益軒の「南遊紀行」に「佐野市場は貝塚より十一里余。民家千軒ありと云う。富商多し。民家皆瓦葺‥‥‥商人多く船を持ちて家業とす。其中に船を多く持たる大富商あり」とある。
この富商に廻船業・大名貸で財をなした食野・唐金の両家があり、「日本永代蔵」は「近代泉州に唐かね屋とて、金銀に有徳なる人出きぬ。世わたる大船をつくりて、其名を神通丸とて、三千七百石つみても足かろく、北国の海を自在に乗て」と記す。両家とも日本海沿岸にまで商圏を伸ばし、岸和田藩・和歌山藩をはじめ多くの大名に貸付を行っていた。
肥料としての干鰯を扱う商人も多く、近隣農家での菜種・綿昨・甘藷の生産に寄与し、製油業・精糖業、米商・醸造業も発達した。
泉佐野市へは、岸和田市同様に、旧紀州街道に古い町並みが残っているだろうという予想のもとに訪れた。旧紀州街道沿いの商家の町並みは、アーケイドに隠れて全く見えず、アーケイドから外れた場所に少し古い民家が点在する程度で、町並みとしては見られなかった。
しかし、旧紀州街道から外れて海側の町並みは、富田林の寺内町にも匹敵すると思われる町並みが展開していた。どの家も街道に沿って店を構えていないので、切り妻造りでなく、大きな入り母屋造りの重厚な建物である。伝統的な様式の家の殆どは本瓦葺きの家屋で、最近の改造が多いのか煙り出しを備えた家は意外に少なかった。
通路は富田林同様直線の道路が無く、細い路地道のような交差点でも少しずつ、づらされていたり、湾曲した道であり、軽自動車がどうにか通れる程度の道ばかりであった。
特別な保護を受けた訳でないのに、これだけの古い伝統的な民家が残っているのは、過去の資産の蓄積が大きかったからだろう。でもこれからこの町並みを残していくには相当の努力が必要と思う。そんな町並みの中に、泉佐野市が公開している旧新川家住宅があり、町家建築の特徴が良く残った家であった。
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参考文献
   大阪府の地名U  平凡社  平凡社地方資料センター  1986年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和58
   大阪府の歴史散歩  山川出版社  大阪府歴史散歩編集委員会  1990年


元町の町並み

本町の町並み

本町の町並み

本町の町並み

春日町の町並み

春日町の町並み
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