泉大津市の町並み 
戎町・本町・神明町・東港町・田中町・若宮町
地図


東港町(左)と本町(右)の町並み
 泉大津市は今でも繊維産業の盛んな所である。近世初めから木綿の栽培が盛んで同一の田に稲と綿とを隔年で作付けする輪作地帯であり、18世紀後半頃までには綿作率が5割近くに達していたようだ。
大津村は正保4年(1647)に下条大津村と宇多大津村に分離したと云われている。今回探訪地域は下条大津村である。江戸時代のはじめ幕府領、寛文元年(1661)幕府領と河内大井藩領になり、その後は複雑な領主の変遷を経ている。
江戸期には和泉木綿の集散地として大きく発展し、綿織物も盛んであった。天保14年(1843)の分かれた宇多大津村の資料では、家数272軒のうち綿織物関係の職業が約7割を占め、農業従事者は1.5割にすぎない。綿織物業を営む家では、家族5人と賃織日雇15人、12台の織機で運営とあり、どの織屋も賃織日雇を雇用しており、綿織物業を中心とした農村都市であった。以上のことから、下条大津村でも同じようは状況だったのだろうと推測でき、最盛期が天保年間(1830〜44)であった。
明治8年の下条大津村の戸数は518軒、明治9年の人数2,176人。同8年の宇多大津村の戸数は254軒、人数1,053人、同9年の人数1,052人であった。
当地の織物産業を近代化産業にしたはじまりは真田織である。宇多大津村の河合又兵衛が堺からその技術を伝え、正徳年間(1711〜16)にはじめたことによる。そして日清戦争頃から綿毛布の生産が行われるようになり、大正から昭和にかけては織機の動力化が進み、綿毛布の生産が飛躍的に発展した。それまでは紀州街道に沿っていた織機工場は近代化とともに海側の農村部に移って行った。
この町を訪ねたのは、泉佐野市同様旧紀州街道沿いの町並みを見るためであったが。旧紀州街道は中央商店街になり、アーケイドに覆われていて隙間からみても伝統的な家屋はごく一部であった。しかし、紀州街道の海側には本町・東港町などで、入り母屋造り2階建て又は中2階建て、本瓦葺の重厚な家屋が連なっていた。建築様式から江戸時代の末から明治にかけての建築と思われる。又他の町並みと異なっているのは、殆どの家屋が黒漆喰塗り込めになっていて、西日本に多い白漆喰塗り込めとは、異なった町の印象を与えていた。
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参考文献
   大阪府の地名U  平凡社  平凡社地方資料センター  1986年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和58
   大阪府の歴史散歩下  山川出版社  大阪府歴史散歩編集委員会  1990年


旧紀州街道本町の町並み

本町の町並み

本町の町並み

東港町の町並み

東港町の町並み

東港町(左)と本町(右)の町並み
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