生野町口銀谷の町並み
口銀谷1〜5区
地図


宮町通りの町並み

生野は銀山で、佐渡の金山とともに日本を代表する鉱山であった。
開鉱は大同年間(806〜810)とも伝えられるが、確かな史料はない。中世には但馬守護山名氏によって、後に竹田城主太田垣氏により、銀山が経営されていたと推定される。その後、織田信長は堺の今井宗久を派遣し、豊臣秀吉は直轄領として治めた。
江戸時代になり、徳川幕府が直轄領とし、代官所を置いて支配した。
慶長5年(1600)に白口地区によい鉱脈の発見があり,数十ヶ所の山が開かれ、最盛期を迎えた。
天正15年(1587)頃には新町、奥銀屋には人家がなかったが、慶長5年(1600)当時には人家ができて次第に繁盛し、白口の人家は880軒に及ぶほどであった。慶長年間の人数は全体で2万人近くであったといい、狭い谷に2階建、3階建てと人家がひしめいていた。(銀山旧記)
しかし初期の坑はしだいに深堀となり、水抜き、煙だしとの戦いで慶安年間(1648〜52)には衰退傾向をみせ、衰退、盛期を繰り返した。銅の生産も正徳年間(1711〜16)には、出羽秋田、伊予別子、立川などに次いで5・6位を占めていた。しかしその銅も18世紀半ばには産出量も減少し、寛政年間(1789〜1800)から鉛の産出が増加したが、坑道が深くなり排水に困難を生じ、幕末には休山に近い状態であった。
明治になり政府はフランス人技師コワニエらを派遣して、近代的銅山として再興した。その後宮内省御料鉱山となり、明治29年には三菱に払い下げられた。
江戸幕府が生野鉱山の経営上特別区(生野銀山町または生野銀山廻)とした町は口銀屋・猪野々町・新町・奥銀屋町・小野町・相沢町・白口町の7町とされる。
享保3年(1718)の陣屋町家数等書上に家数735軒とある。享保15年(1730)の銀山宗門改帳では家数751・世帯数1249・人数6583となっている。文政13年(1830)の生野銀山廻明細帳によれば家数1109・人数6588で、医師11・大工36・鍛冶25・桶屋5・木挽4・屋根葺9・山伏4等となっている。田畑を所有する百姓はわずかで、男は銀掘り・手子・吹屋職、女はゆりもの師・吹子さしで稼ぐとあり、代官の膝元で特殊な環境下にあり、一部の農家を除いて住民の大部分は銀山に関係して暮らしていた。
口銀谷は昔は口銀屋といい、「くちがなや」とよむ。今町並みを歩くと、特殊な銀山町であったためか、比較的大きな商家の建物が少なく。間口の小さい鉱山職人の住居の跡らしい町並みが続く。
そんな中に、白い土塀で囲まれた一画がある。明治初年の政府の銀山役人の住宅街で、国道429号線に沿って展開する。その国道の反対側にも長い白い土塀で囲まれた古い建物がある。今は三菱マテリアル生野クラブになっているが、江戸末期から明治にかけて建てられた卯建のあがった建物で、三菱全盛期には企業の迎賓館として利用されたものである。
古い町並みを構成する伝統的な建物も口銀谷の1・2・3・4・5区に展開するが、町並みと言うほどは連続せず点在する状態であるが、中には本卯建のあがった家もあった。
伝統的な建物は切り妻造り・平入り・中2階建て・虫籠窓の建物であるが、かっては格子戸であったようだが、今は殆ど窓ガラスやサッシュに変わっていた。煙だしを備えた家も多くあったが、駒つなぎを残した家は見られなかった。
今生野町では江戸時代の郷宿「井筒屋」旧吉川家の建物を寄贈してもらい、修復工事中で「まちづくり工房井筒屋」として再生するようである。
この生野町は古い町並み保存に向けての活動が活発に行われていて、町並みを歩いても各所に、案内掲示板があり、歴史遺産を活かした町づくりが積極的に行われていて、好感をもって町並みの探索ができた。
町並み指数  40
参考文献
   兵庫県の歴史散歩下  山川出版社  兵庫県高等学校教育研究会  1996
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年
   兵庫県の地名  平凡社  下中直人  1999


旧銀山役人の住宅街

鍛冶屋町通りの町並み

生野書院の建物

宮町通りの町並み

宮町通りの町並み

宮町通りの町並み
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