茨木小学校の西門脇に茨木城跡の碑が立っている。 茨木城は14世紀の築城とされ、15世紀末から茨木氏の居城であった。元亀2年(1571)の白井河原の合戦で、和田惟政と組んだ茨木氏は荒木村重・中川清秀軍に破れ敗死した。そして茨木城主は荒木村重、続いて中川清秀となったが、清秀は近江北部の賤ヶ岳の合戦で最期を遂げた。秀吉は天正13年(1585)に摂津の大部分を直轄地とし、茨木城には代官を置いた。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いによって徳川氏の覇権は定まり茨木城には豊臣氏の家臣片桐且元・貞隆兄弟が入城した。大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し、片桐且元も間もなく駿府で死亡し、元和元年(1615)の一国一城令により茨木城は取り壊された。 江戸時代の茨木村は、はじめ片桐氏領から始まり、幕府領、山城長岡藩永井氏領、幕府領、京都所司代役知、幕府領、京都所司代永井氏領、下野鳥山藩永井氏領‥‥‥と永井氏の転封とともにその国の領地となり、最後、美濃加納藩永井氏領となって幕末を迎えた。 大坂から高槻に至る高槻街道(大坂高麗橋を基点として高槻城下へ入り、安満で西国街道と合流する街道。茨木は宇野辺から奈良へ入り、市街を抜けて戸伏から富田をへて高槻城下の南端から高槻にはいる)沿いを中心に早くから町場が形成されていた。 元文元年(1736)頃のものと見られる永井様領分島下郡五ヶ村高反別記には、家数748軒・人数3,378人とされ、職業には酒造屋12・醤油屋3・油屋7・桶屋6・鍛冶屋8などで、大きな町場を形成していたようだ。 享保18年(1723)の状態を示す宝暦4年(1754)書写の茨木之地図によると、「この茨木、酒店の多きをもって町をなす」とあるように、酒造業が中心産業であった。「摂津志」にも茨木村の土産として酒が記され、享和3年(1803)頃には4軒の酒造家がおり、4株3,540石の酒造株うぃ所持していた。 天保14年(1843)の五人組帳によると家数677軒のうち町分658軒、村分は僅か19軒に過ぎず、商家が並ぶ大きな町場を造って繁盛していた。 今、古い伝統的な町並み町並みは元町・本町・片桐町・上泉町などに見られるが、特に上泉町には特筆する町並みが残っている。元町・本町・大手町にも伝統的家屋が点在するが、殆どは商店街になっていて、大きな看板などで覆われ、町並みを鑑賞することはできない。 西国街道の宿場町、郡山宿の椿の本陣も画像を掲載したが、西国街道や郡山宿については別に説明の機会を創りたい。 大阪府の地名T 平凡社 平凡社地方資料センター 1986年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58 大阪府の歴史散歩下 山川出版社 大阪府歴史散歩編集委員会 1990年 茨木市史復刻版 茨木市役所 昭和53年 |
上泉町の町並み |
上泉町の町並み |
上泉町の町並み |
上泉町の町並み |
宿川原郡山宿椿の本陣 |
宿川原の町並み |