総持寺の集落は平安時代後期に西国三十三所観音霊場の一所となった高野山真言宗の総持寺の門前町として成り立ったのだろう。 総持寺は南北朝期には寺域周辺の各村に寺領を持っていたが、規模は小さく散在し、時代よって異なるが25石から30石程度の寺領であった。 寛政3年(1791)の「西国巡礼細見記」の挿画によると、門前にかなりの宿がみえ、霊場参拝者の宿泊設備も整っていたようである。 今ではその当時の門前町の面影は全く見られず、何処にでもある農村集落のようである。江戸後期から明治にかけて、土地集積が進んだのだろう。大阪・京都の中間に位置する農村集落で、農業以外の造り酒屋・米屋・油屋等々の豪商も存在したような町並であった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 兵庫県の地名T 平凡社 平凡社地方資料センター 1999年 |