茨木市の平坦部の北、安威川上流右岸に位置する安威は奈良時代から登場する地名で、古くから開けていたようだ。 安威村は藤原鎌足の墓があったことでも有名で、大和多武峰への改葬のとき遺骨の争奪を演じたそうだが、昭和9年の調査で阿武山山頂に眠る貴人はほぼ藤原鎌足だろうと言う説が実証されたようだ。 江戸時代の安威村の領主は複雑を極め、はじめは幕府領から始まったが、十日市村・桑原村に分村し、安威村を幕府領・旗本深津氏領・旗本中川氏領、旗本土井氏領等と分割や振り分けを繰り返して明治を迎えた。 安威村で有名なものに、一ノ堰・五社堰がある。安威川の水を求めた用水源で、安威川流域の村々にとっては最重要な堰であった。上流側にある一ノ堰(11ヶ村の用水)と次の堰の五社堰(7ヶ村の用水)の間の水論は激しく、元和9年(1623)・宝永7年(1710)・文化5年(1809)から文政7年(1824)の16年に及ぶ大水論も起こっている。 明治9年の人数は1,013人。明治42年の戸数198軒・人数1,143人であった。 歴史上から見ると、この集落は全くの農村集落ということになる。江戸中期以降農村でも土地の集積が行われ、土地を持たない農民と地主層に分かれていった結果、このような豪農の混じる農村集落が出現したのだろう。 この地の農作物の中心は勿論米で、明治期になり、綿生産が衰退し、菜種も生産されていたが量が少なく、野菜なども自家消費程度であった。 農作物の代表格の米も、三島特産米の酒米が多く生産され、特に山間部に接した地域のものが上質とされ、灘の酒蔵に出荷され、この地域を活気づける役割を果たした。 その他にこの地を活気づかせたのが、ケシ栽培とウド栽培である。旧幕府のもとではケシ栽培は禁止されていたが、高槻藩は密かに栽培させて、高槻藩財政を助けていた。 藩が崩壊した明治になっても、密かに栽培されていたようである。 そして台湾総監府からの試作命令などにより、この地でケシ栽培が盛んになり、米の裏作として三島平野はケシの花で真っ白になるほどで、農家最大の利益を得たようだ。 当時は厳しい栽培管理・製品検査・荷出し管理が行われていたが、それでも密売するものが絶えず、毎年のように警察に検挙される不祥事が起こっていた。 ウド栽培も米の裏作として栽培され、「三島ウド」として多く栽培されていた。 今、集落を歩くと、江戸末期のものは少ないが、明治・大正・昭和にかけて建てられた家屋が多く,土地集積が浸透し、ケシ栽培で潤った農村集落の景観が残っていた。江戸時代から明治に建てられた建物は切り妻造りが多いようだが、昭和に入って建てられた建物は入り母屋造りが多いようだった。 安威郷土史 安威郷土史委員会 安威郷土史編集委員会 1998年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 大阪府の地名 平凡社 下中邦彦 1986年 |
茨木市安威三丁目の町並 | 茨木市安威三丁目の町並 |
茨木市安威二丁目の町並 |
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茨木市安威三丁目の町並 |
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