枚方は大阪の北東部にあって、大阪・京都のほぼ中間に位置している。淀川は京都と大坂を結んで、年貢米や産物など、陸上輸送の困難なものを運搬する重要な交通路であった。 国内をほぼ統一した秀吉は、天正11年(1583)に大坂城を築城し、堺・伏見の商人を移住させたため大坂は、軍事上・経済上最も重要なところとなった。続いて文録3年(1594)に伏見城を築いた後、このあいだの最短路が必要だったため、淀川左岸の川島をつないで堤防を作らせたのが、文録堤であり、またその上を道路として利用した。 この道が後の京街道で、江戸時代になると東海道の延長部として京都・大坂を結ぶ主要街道になった。 枚方宿は、京都・大坂の中間点に位置する交通の要衝として発展した。徳川家康は岡新町村・岡村・三矢村・泥町村の4ヶ村を「枚方宿」に定め、その時期は慶長6年(1601)から寛永年間(1624〜44)迄の間と見られるが正確な年次はわからない。 宿の陸上では東海道56次目の宿駅、また淀川水運では中継港として交野地方の年貢米・産物・作物の集散地の機能を併せ持つ、在郷町と宿駅「枚方宿」の宿場町を兼ね備えた町として、徳川幕府のとって重要な町であった。 東海道筋で指折りの大きな宿場町であって、宿の東は岡新町村の東端から西は三矢村の西端迄の1447m、道幅は4m〜5mの一本の街道を中心にできていた。枚方宿には本陣一軒、脇本陣二軒、また紀伊家家老専用本陣もあった。 京街道きっての老舗「鍵屋」は枚方宿の代表的な船宿で、「淀川三十石船歌」にも唄われていて、昔ながらの情趣を残している。旧泥町村には21軒の船宿があったといわれるが、その面影が色濃いのは鍵屋だけだ。主屋の建築年代は18世紀末と推定されている。裏口には淀川に通じる石垣の水路が残り、江戸時代にはここから淀川へ舟で出入りできた。 かって江戸時代、淀川を往来する伏見三十石船、淀二十石船で賑わった頃、ここはどこじゃと船頭衆に問えば、ここは枚方鍵屋浦、鍵屋浦には碇はいらぬ、三味や太鼓で舟とめる。と唄われ、船宿、泊茶屋が軒を並べ、まさに全盛を極めたところである。しかし今は往時の面影はなく、わずかに鍵屋の「くらわんか料理」が残っているくらいである。 今 枚方宿を構成している大型の商家の建物は、木南喜衛門家(屋号を田葉粉屋 庄屋と問屋役人くらわんか船の鑑札を所持平入り、出格子、虫籠窓、四棟の土蔵がある)。奥田八郎兵衛家(屋号を田葉粉屋 問屋役人 酒造業文政年間(1818〜29)の建築、虫籠窓を持つ典型的な枚方宿の町家)。小野平右衛門家(屋号は八幡屋 村年寄と問屋役人建物は幕末期のものと思われ、平入り、虫籠窓、出格子、桟敷窓をつけ揚見世と下げ戸が現存していて、醤油業を兼ねていた町家の遺構)。 ここで枚方名物「くらわんか船」について書くと、淀川三十石船は枚方浜に碇泊した。この船に漕ぎ寄せ、あん餅・ごぼう汁・酒などを売る茶舟(煮売舟)があった。「餅くらわんか、酒くらわんか……銭がないのでようくらわんか……」と声も荒々しく売りつけたところから「くらわんか舟」という俗称がうまれ、淀川筋の名物になったものである。 大阪府の歴史散歩下 山川出版社 大阪府の歴史散歩編集委員会 1990年 枚方市史 枚方市 枚方市史編纂委員会 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 |
鍵屋ののれん |
枚方宿の民家 |
枚方宿の旧庄屋 |
くらわんか餅の鍵屋 |
枚方宿の民家 |
枚方宿の民家 |