津田は生駒山地の西部延長部の麓で、先土器時代から縄文時代にかけての津田三つ池遺跡がある。 中世には三宮神社の再興・修造で、嘉禄2年(1226)の修復には津田村の住人30余人が願主になっている記録が残っている。 戦国期には新興の国人津田正信が、延徳2年(1490)に津田山中の国見山の標高286.5mの位置に津田城を築いている。そして三代目の正明は永禄年間(1558〜70)に杉・藤坂・長尾・津ノ熊・大峰などの新村を開発した。 江戸時代は旗本久貝氏知行950石余・旗本畠山氏知行134石余で、久貝氏知行分は文久3年(1863)幕府領となり、慶応元年(1865)再び旗本久貝氏知行となった。畠山氏知行分は幕末まで同氏が世襲した。 元禄7年(1694)からは東海道の延長線上の京街道枚方宿の助郷となっている。 元禄年間の「見聞予覚集」によると、農作物は米・大麦・小麦・綿・菜種・煙草等であったが、天和年間(1681〜84)山下政右衛門は大和国三輪から素麺製造の秘伝を持ち帰り、村内に広めたため、素麺製造が行われていた。領主久貝氏は文化年間(1804〜18)素麺取締株を設定して素麺業を統制している。 寛文年間(1661〜73)には小規模ながら酒造業も行われ、天明年間(1781〜89)には相当な規模に発展した。 津田村の家数は延享4年(1747)292軒・寛延2年(1749)287軒。人数は寛保3年()17431,305人・宝暦10年(1760)1,317人・文化元年(1804)1,443人であった。 大正10年の津田村統計台帳によると、田297町余・畑57町余・宅地23町余・山林487町余などで、世帯数487の内農業342・養蚕業43・工業26・商業56などであった。 農業の内訳は自作51・自小作158・小作138で専業農家235・兼業農家200であった。 今、津田元町集落内を歩くと、江戸時代そのままの細い路地道に沿って江戸・明治・大正・昭和にかけて建てられた古い伝統的な様式の建物が点在する農村集落風景が展開する。 江戸時代から明治にかけて建てられたものは、切り妻造り中2階建てのようであるが、昭和に入って建てられたものは殆どが入り母屋造り2階建てのどっしりした建物である。長屋門を備えた大型の屋敷も多く、裕福だった豪農の面影があちこちで偲ばれる集落であった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名編纂委員会 昭和58年 大阪府の地名U 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1986年 |
津田元町二丁目の町並 |
津田元町二丁目の町並 |
津田元町二丁目の町並 |
津田元町三丁目の町並 |
津田元町三丁目の町並 |
津田元町三丁目の町並 |
津田元町三丁目の町並 |
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