出屋敷は江戸時代には田口村の一部であった。田口村の集落は今の田口辺りにあり、江戸時代後期に集落東方の山田池との間を、南北に東高野街道が通り、その街道沿いに街村が形成されたのが出屋敷である。 田口村は元和5年(1619)から大坂町奉行久貝正俊領となり、文久3年(1863)から一部幕府領となるが、慶応元年(1865)から再び久貝領となり幕末を向かえる。 元禄7年(1694)から京街道枚方宿(東海道)の助郷となっている。天保14年(1843)の明細帳によると、家数119・人数563であった。米・綿・菜種・青物などを中心とする商業的農業が中心であった。農村工業として酒造業や水車稼ぎの絞油業・素麺業などが行われていた。 町並は旧東高野街道沿いの両側に展開している。伝統的な様式の建物も数多く残ってはいるが、宿場町・街道町の様相でなく、農村集落の様相を呈している。即ち街道に沿って切り妻造りの平入りの家屋や、長屋門を供えた家屋でなく、街道に沿っては門と塀を持ってきた農村集落である。街道が南北に通っているので、主屋は必然的に南に向き、街道に面しては妻側を見せていた。 招提村は天文12年(1543)河内国牧郷内の荒地に浄土真宗の道場が建てられ、寺内村として成立したもの。 寺内村の領域は東西30町・南北20町に及ぶ広大なものであった。土塁を築いたり、堤を作って水を貯めたり、木戸を設けて通行の監視などを行った。石山本願寺合戦の時には、表面上は織田信長に服従したように装い、内心は本願寺に通じて、無事難を逃れたが、天正10年(1582)本能寺の変後、明智光秀に味方したため、寺内不入りの特権を剥奪され、一般農村になってしまった。 江戸時代の領主の変遷は、細分化された領地で領主も頻繁に代り複雑を極めた。 文禄3年(1594)と推定される検地帳によると家数62軒。寛永21年(1644)地詰帳によると家数57。 文政5年(1822)の村明細帳によれば、村領は東西15町・南北13町で、集落は東西3町・南北3町半であり、家数104となっている。文久3年(1863)の村明細帳では家数119・人数443であった。 農業を主体とした生活基盤は田口村と同様で、明和3年(1766)の稲作は70町5反・綿作は8町2反・雑毛作が14町4反であり、酒造業・絞り油業・素麺業が行われていた。 招提の町並は、軽自動車でも通れるかと思うほど細い道路が不規則に通っていて、家屋も切妻造り、入り母屋造り、2階建て、中2階建てが入り混じった完全な農村集落であった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名編纂委員会 昭和58年 大阪府の地名U 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1986年 |
出屋敷元町一丁目の町並 |
出屋敷元町一丁目二丁目の町並 |
出屋敷元町二丁目の町並 |
招提元町三丁目の町並 |
招提元町一丁目の町並 |
招提元町三丁目の町並 |
招提元町一丁目の町並 |