兵庫県の西端に佐用町平福は位置する。 南北朝期に赤松一族の別所敦範が利神山に山城を築いたのは、貞和5年(1349)である。 以来220年間にわたって別所一族の拠点として、佐用郡を支配していた。しかし天正6年(1578)に山中鹿介に攻められて落城した。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いのあと、播磨52万石の領主池田輝政の甥 池田出羽守由之が平福領二万三千三百石の領主となり、利神山上に5年の歳月をかけて広壮な城郭を造営した。 山麓には城主屋敷、武家屋敷を配し、街道沿いには町人町を設ける城下町の建設に着手した。慶長15年(1610)には、ほぼ現在の道路、地割りが完成している。 城下は南から南新町・下町・中町・上町・北新町に区分され、他に裏町もあったが、後には城下であったことを示す地名は南新町内の鉄砲町のみとなった。 佐用川の流れを利神山山麓に移して、城の外堀の役目をもたせ、西山山麓の因幡街道も町の中に移し、街道の4ケ所で折れ曲げて遠見遮断の道路にして敵の侵入に備え、城の安泰と町の繁栄を図った。しかし、利神城は完成後間もなく藩主池田輝政の命で天守閣が取り壊された。 池田一族でその後25年間支配したが、池田氏の後に山崎に入封した松井松平康映は、子供の松井松平康郎に五千石で平福領を統治させ、明治維新まで続いたが、松井松平氏の支配になって、平福は城下町の繁栄を終え因幡街道の宿場町へと移行していった。 平福陣屋門は松井松平康郎五千石の旗本領で、代官支配となっていたときの陣屋門で、今の陣屋門は元治元年(1864)に代官佐々木平八郎が建築したものである。陣屋は明治初年に取り壊され、今は門以外は何もなく空地になっている。 佐用川の川端風景は石垣の上に建ち並ぶ白壁、土壁の川屋敷、川座敷、土蔵群は平福ならではのものであり、その影を川面に映す景観が美しい。民家の多くは江戸時代から明治時代に建てられたものである。 町並みは南北に1.2kmほどで、切り妻造り、平入り、本瓦葺又は桟瓦葺、中二階、白壁の漆喰壁又は土壁、一部真壁や黒壁もあり、虫籠窓、格子、一部煙だしが付いていて、駒つなぎも残っている商家があった。町並は城下町よりも宿場町、在郷町としての商家が多く見られ、山陽側と山陰側を結ぶ因幡街道の宿場町として経済的、文化的に栄え、また在郷町としての役割も担っていたようだ。 民家の軒下を流れる清流は、かって生活用に利用した上水道の流れで、下水路は上水道や道路の下を横切って、全て佐用川に流れていて上下水道を巧みに交差する工法がとられている。 この地域は町の施設が次々に佐用に移されてしまい、国道373号線が町並みの山側を通って、開発から取り残されてしまったので、町は手つかずのまま残り、飲食店も土産物屋もない素敵な町並みがここに存在するのである。 兵庫県の歴史散歩下 山川出版社 兵庫県高等学校教育研究会 1996年 町並み・家並み事典 東京堂出版 吉田桂二 昭和61年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 平福郷土館パンフレット資料No5 |
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川端風景 |
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