姫路城の西側に古い町並が残っている。姫路城は南北朝期の貞和2年(1346)赤松貞範の築城にはじまる。羽柴秀吉が城主の天正8年(1580)に三層の天守閣をもつ一大城郭を建築し、城下町には楽市の制度をもうけて、商業の発展を促している。 しかし現在の城は関ヶ原の戦いでの功により、播磨52万石の領主となった池田輝政が建築したものであり、同時に城下町の建設工事も行った。城の南側を正面とする城下町割りがなされたが、集落は殆ど無かったようである。 姫路の城下町は池田氏が元和元年(1615)に姫路を去るまでに原型ができあがっていたと思われ、町人町は江戸時代を通じて基本的には78町のままであった。 さて、今回訪ねた城下町の材木町や小木利町について述べると、まず、材木町の名は姫路城の東の城下町であって、材木屋が軒を並べていたという。しかし火の用心と往来の邪魔になるため、領主本多忠政が寛永元年(1624)に強制的に姫路城西の今の材木町に移動させ、そこを材木町と称し、元の姫路城の東を、堺町・竹田町と呼んだ。次いで小木利町は天正8年(1580)に羽柴秀吉によって姫路城が改修されるまでは、当地が大手であった。 元和年間(1615〜23)に姫路藩主本多忠政が城郭および城下の整備を行った時、城の西を流れる旧二股川を改修して船場川とし、飾万津(しかま)から荷運びの船筏を通した。これにより材木町と小木利町は船着き場として繁栄した。船場川を通った高瀬船の荷物は米・木綿・薪・炭・鰯・塩などであった。 龍野町は秀吉による発展策により、各地から移住するものが多くなり、当地で市が開かれて発展した町である。また江戸時代には山陽道が通りそれに沿って東西に長く発達した町である。 今、古い町並は材木町・小木利町・龍野町に残っている。船場川に沿って発展した材木町や小木利町は、今でも昔のまま川に沿って古い町並が展開している。西に向かう山陽道に沿って発展した龍野町も昔のまま街道に沿って古い町並が残っている。 特に姫路城西の材木町や小木利町には古い町並が多く残り、往時の町並を彷彿とさせるが、昔からの細い道を車が多く通り、落ち着いて町並鑑賞が出来なかったのが惜しまれる。 兵庫県の歴史散歩下 山川出版社 兵庫県高等学校教育研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 兵庫県の地名T 平凡社 平凡社地方資料センター 1999年 |
龍野一丁目の町並 |
龍野一丁目の町並 |
吉田町の町並 |
材木町の町並 |
材木町の町並 |
材木町の町並 |
小利木町の町並 |
小利木町の町並 |
小利木町の町並 |
小姓町の町並 |