姫路市飾西・青山の町並み
飾西・青山一丁目・二丁目・五丁目
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飾西の町並み
姫路市飾西(しきさい)は因幡街道の宿場町である。青山村で西国街道(山陽道)から分岐した因幡街道がこの地を通っていて、慶長国絵図に村名が見られる
寛文11年(1671)の飾西宿助人馬役存続願書に、先年より大名通行の際には揖東郡打越村など41ヶ村から助人馬を呼び寄せて当村で伝馬役を勤めていたが、近年は宿次の馬数50疋相究めたと記されている。したがって寛文11年(1671)以前から飾西村は宿場としての機能を有していた。
寛政9年(1797)に本陣中山助太夫が林田藩に提出した嘆願書には、飾西宿の成立は寛永年間(1624〜44)と記されている。
江戸時代の領主の変遷は複雑で、はじめ姫路藩領から始まり、龍野藩領、幕府領、相模小田原藩領、幕府領、大坂城代戸田忠寛(下野宇都宮藩)領、幕府領となり幕末になった。
宝暦10年(1760)の村明細帳では家数83軒・人数417人、明治24年には家数102軒・人数514人であった。
古い町並みは、清酒「寿老」蔵元の鍬田家を中心として広がっている。酒造蔵の赤レンガ煙突がこの宿場町のシンボル的存在である。
伝統的な商家の建物は少なく、入り母屋造りのどっしりと重厚な大型の家屋が続き、中2階建て、白又は黒漆喰塗り込めの虫籠窓の家屋の連続であった。

姫路市青山には西国街道(山陽道)が通っていて、山陰への道の因幡街道の分岐点でもあった。飾西同様に慶長国絵図に村名が見られる。
江戸時代の領主の変遷も飾西同様複雑で、はじめ姫路藩領、龍野藩領、幕府領、龍野藩領、幕府領、出羽国山形藩領、一橋家領で幕末を向える。
天保4年(1833)の村明細帳では、家数213軒・人数1015人・僧侶6人・医師3人がいた。
西国街道と因幡街道の分岐点に、安政2年(1855)建立の道標があり、目的地や距離が刻まれていて、姫路市の指定文化財になっているそうだが、気づかずに通りすぎてしまい、誠に残念である。
案内書によると、「右因州 伯州 作州 雲州 左備前 九州 金毘羅 宮嶋往来 すぐ姫路 大坂 京 江戸往還 施主 伯耆国倉吉西町小松専太郎 下手野村大野丈助 世話人姫路大黒町高井利平」とある。小松専太郎氏は倉吉の特産の稲こきせんば(脱穀機)や絣を江戸に運んで手広く商売をしていた人で、道中の人々の安全を願って建てたものである。
青山の町並みは、切り妻造りと入り母屋造りが入り混じっていた。飾西同様に重厚な民家が続く町並みであったが、青山の方は伝統的な商家の建物が多く残っていて、中2階建、漆喰塗り込めの虫籠窓、格子の町並みは、旅姿の人々が行き交った昔を彷彿させていた。
町並み指数  飾西 50  青山 40 
参考文献
  兵庫の街道いまむかし  神戸新聞綜合出版センター  橘川真一  平成6年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63年
  兵庫県の地名  平凡社  下中直人  1999年

飾西の町並み

飾西の町並み

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青山の町並み

青山の町並み

青山の町並み

青山の町並み
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