姫路市飾磨の町並み
飾磨区天神・飾磨区大浜・飾磨区宮
地図


飾磨区天神の町並
 今、姫路港と言われているところが古代には飾磨津湊と呼ばれ、長安4年(1023)花山法皇が書写山に行幸した際にこの湊で下船しているように、平安期には瀬戸内海交通の要地であった。
中世から近世にかけては飾万津と呼ばれていて、「兵庫北関入船納帳」では飾万津の船の出入が少なく、近接する網干や今在家に遠く及ばなかった。しかし天正12年(1584)の羽柴秀吉書状で、「はりましかま」が物資の引渡し場所として指定されていて、港としての機能は持っていたようだ。飾磨は江戸時代を通じて姫路藩領であった。
天正8年(1580)に英賀城が羽柴秀吉の攻撃によって落城し、英賀城下から多数の住民が当地に移住したと伝えられるが、飾万津が湊町として発展するのは江戸時代に入り、池田輝政が姫路に入部してからである。
輝政は慶長6年(1601)から同14年(1609)にかけての姫路城の築城と並行して姫路城下から飾万津に通じる運河(三左衛門堀)の開削を進め、この工事で掘り出した土砂を利用して当時入江だった飾万津東部の野田川河口部を埋め立てて島を造り、船役所を設置し船奉行をおいて、港津としての機能をたかめ、姫路の外港としての役割を持たせた。
池田氏の後に入った本多忠政は、城の西側を流れる旧二股川を改修して船場川とし、姫路城から飾万津までの舟運を確保し、船筏を通したので飾万津は益々姫路の外港としての地位を確保し町場化が進み町数は20を数えるようになった。
宝永元年(1704)の本多家在姫路覚書によると、町数20・家数1,530・人数9,927・船数大小85とある。しかしその後、明和2年(1765)6,190人・文化6年(1809)には5,548人と減少している。これは飾万津の湊としての機能が、年々流入する土砂により船の着岸が難しくなり衰えたからと見られている。
そして弘化3年(1846)南部の須加町に湛保(たんぽ)と称する船溜を築造し、湊の機能が同町に移って明治を向えた。
今、古い町並は生野銀山から飾磨港まで続く飾磨街道と室津への網干街道が交差した飾磨区宮から西に延びる網干街道沿いの飾磨区天神にかけて展開している。街道と云っても集落を結ぶ道が西に延びていただけのものだったろうが、伝統的な商家の建物が連なっている。湊として栄えていた当時の面影だろう。
大正13年の職業別戸数を見れば歴然とした商業町だったことがわかる。戸数2,112の内、農業330・工業682・商業662・漁業96・雑業338・無業4で商工業者が7割近くを占めている。
伝統的な家屋は平入り、中2階建て、虫籠窓や格子を残した家も多く見られ、袖壁や袖卯建を備えた家も見られた。
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参考文献
  兵庫県の歴史散歩下  山川出版社  兵庫県高等学校教育研究会  1996年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63年
  兵庫県の地名T  平凡社  平凡社地方資料センター  1999年            

飾磨区天神の町並

飾磨区天神の町並

飾磨区天神の町並

飾磨区天神の町並

飾磨区天神の町並

飾磨区天神の町並

飾磨区天神の町並

飾磨区大浜の町並

飾磨区宮の町並

飾磨区宮の町並

飾磨区宮の町並

飾磨区宮の町並
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