姫路市網干区の町並
興浜・新在家・余小浜
地図


網干区興浜の町並
 網干は姫路市の南西部を占める一帯で、揖保川の下流端に位置する。瀬戸内海に面した網干は、中世には海運の中心地として栄えた。「兵庫北関入船納帳」によると、文安2年(1445)兵庫北関を通過した網干船籍の船は延62隻にのぼっている。江戸時代も揖保川の水運による交易がさかんで、特に龍野藩はこの地を醤油などの国産品の搬出港として利用していた。
江戸時代の明暦4年(1658)には余子浜村(横浜)、興浜村(奥浜)、新在家村の3村に分かれたが網干三ヶ村と云われていた。
分村しない前の江戸時代はじめ、姫路藩領、元和3年(1617)龍野藩領、寛永9年(1632)幕府領、寛永10年(1633)龍野藩領、寛永13年幕府領、寛永14年龍野藩領の後、明暦4年(1658)分村し、余子浜村・興浜村は讃岐丸亀藩領になり、新在家村はそのまま龍野藩領となった。
まず、龍野藩領新在家村には江戸時代龍野藩蔵屋敷と藩邸(現在の網干小学校の校地)があり、領主の領内巡視の際に休息に利用された。蔵屋敷の南側には掘割が海まで通じ船留まりがあった。藩邸の西方一帯は町家で42町があった。
次いで興浜村は龍野藩主から讃岐丸亀に転封された京極氏の飛地領となり、興浜陣屋を置いて統治した。余子浜村も興浜村と同時に讃岐丸亀藩領として分村したもので、京極氏の興浜陣屋の支配を受けていた。
正徳元年(1711)丸亀藩領郡村高辻帳(村明細帳)によると、興浜村の家数175・人数800。嘉永元年(1848)丸亀藩の「西讃府志」によると家数311・人数1,235であった。
享和2年(1802)の村明細帳によると、余子浜村の家数177・人数852人。新在家村は天保元年(1830)の家数492・人数2,236である。
この網干3ヶ村は揖保川流域の物資の集散地として栄え、天保2年(1821)には出石(現山崎町)から揖保川を川下げされた高瀬船は2,000艘を超え、大量の物資がさばかれていた。
又、大名の年貢米蔵元の安田屋、城米蔵元の成田屋などがあり上荷船や廻船を所有し繁栄を極めていたし、幕末には醤油がこれらの船によって大坂へ運ばれていた。
古い町並は余子浜、興浜、新在家の町中で所々で展開している。切り妻造りであったり、入り母屋造りであったりと統一性には欠けるが、平入りの中2階建て、虫籠窓を備えた商家の建物が連なる。
町中に石橋の「境橋」が道路の片隅に設置されていた。かって龍野藩の新在家と丸亀藩の興浜とを分ける掘割に架かっていた石橋で、今の位置から7〜8mほど南側にあったようだが、道路拡張に伴い小川は道路になり、橋は記念に少し移動して保存されたもの。
興浜には丸亀藩の網干陣屋跡があり、当時の門が復元されて残っており、この辺りに漆喰塗り込め中2階建ての商家の建物が多く残り、網干を代表する古い町並の景観を保っていた。
町並み指数 50
参考文献       
  兵庫県の歴史散歩下  山川出版社  兵庫県高等学校教育研究会  1996年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名辞典編纂委員会  昭和63年
  兵庫県の地名U   平凡社   (有)平凡社地方資料センター   1999年

網干区余子浜の町並

網干区余子浜の町並

網干区新在家の町並

網干区新在家の町並

網干区興浜の町並 家の手前に石の境橋が見える

網干区興浜の町並

網干区興浜の町並
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