藤井寺市藤井寺は大阪府の南東部に位置し、中世・近世においては、大和川舟運をはじめ、東西に竹内街道・長尾街道が並行して走り、これと交差して南北に東高野街道が通じている水陸両面の交通の要衝であった。 藤井寺市域は石器時代から古墳時代にかけての遺跡が多く発見され、古代文化発祥の地とも云われている。中世に入り南北朝期にはしばしば戦場となり、正平2年(1347)の藤井寺合戦(畠山家から発した東西大名の抗争)は「太平記」に記されていて有名である。 応仁・文明の乱でも戦場となり、近世初頭の大阪冬・夏の陣でも主戦場となっている。 江戸のはじめは幕府領、元和9年(1623)丹南藩高木氏領、宝暦8年(1758)幕府領、文化10年(1813)からは相模小田原藩大久保氏領で明治を向かえる。 元禄年間(1688〜1704)から幕末にかけて、西国三十三か所観音霊場参りが流行し、葛井寺(剛琳寺)が第五番札所となり、同寺南大門前は参詣客のための旅籠屋が多くできて賑わっていた。 門前集落としての賑わいは宝暦8年(1758)には旅籠屋12軒・茶屋8軒があったほか、酒や米、割り木・古手・古道具・豆腐・煙草・菓子を商う商人もいて、家数55を数えた。 明治2年の明細書上帳によると稲・木綿を産し、家数66・人数322とある。 藤井寺市は葛井寺にちなむ地名である。門前にかって多く建並んでいた旅籠屋は見当たらないが、伝統的な様式で建てられた造り酒屋さんが町並みを形成している。通りに近いところに設えた煙り出しが印象的である。白壁の主屋や土蔵、板囲いの建物が古い町並みを形成していた。 大阪府の地名U 平凡社 平凡社地方資料センター 1986年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58 |