淡路島の玄関口として岩屋港周辺に市街地が発達し、明石海峡大橋が開通した現在も、明石・岩屋間にフェリーの運行が続き、賑わいを見せている。 岩屋は古代には石屋を記され、海上交通の要地であった。「風土記」にも「続日本書紀」にも登場し、淡路島最北端の松帆の浦は「万葉集」「平家物語」にも登場し、小倉百人一首にも出てくる景勝地である。 室町期には岩屋は瀬戸内海航路の重要な港で「兵庫北関入舟納帳」にも記載されている。戦国期の岩屋は海上交通のみならず軍事上の要地でもあった。明石海峡に臨むこの地には古くから城が築かれた。中でも天正年間(1573〜92)の織田軍と毛利軍の長年に亘る海戦で岩屋城はいっそう脚光を浴びた。 関が原の戦い直後、池田忠雄が淡路を領し、岩屋三対山頂に新しく城を築いたが、数年で由良(現洲本市由良)に成山城を築き、岩屋の城を廃棄した。 元和元年(1615)淡路全土が阿波国徳島藩主蜂須賀至鎮領となった。徳島藩は寛永20年(1643)岩屋に藩邸を置き、海峡の警固を厳重にした。 江戸期、岩屋は岩屋浦と称され、寛政2年(1790)の家数318・人数1,823。文化13年(1816)家数566・人数1,485。江戸期の地誌「味地草」によると607石、家数605とある。 幕末、外国船が我が国に接近してくる中で、徳島藩は岩屋の松帆などに砲台を築いた。 江戸期の主要産業は漁業であったが、漁民に加子(水夫)役が課せられ、その上漁獲高の20パーセントが運上金として藩に納めねばならなかった。 明治に入ってからも重要な産業は漁業で、タイ・タコ・イカナゴ・ハマチ・サワラ・スズキなどであった。 明治4年、岩屋と対岸の明石を結ぶ定期航路が開かれた。同25年頃には石油発動機が導入され、利用者も増加し岩屋海運が設立された。その後も順調に岩屋・明石航路は発展を続けた。しかし淡路島の玄関口として多くの人々で賑わっていたが、明石海峡大橋の開通により、一部のフェリーを除いて、殆どは神戸淡路鳴門自動車道で岩屋の山手を通過するだけになり、賑わっていた町も衰退していく過程にあるようだった。 町並は岩屋街道に沿った一本道の両側に商店街が展開し、路地を入ったところは漁師町の様相を示している。特別古い町並と言う訳でもないが、2階建て平入り板囲いの町屋が並ぶ。 町の主産業は漁業だからやはり漁師町としての性格が一番強いようだった。 兵庫県の歴史散歩上 山川出版社 兵庫県高等学校教育研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 兵庫県の地名T 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1999年 |
岩屋の町並 |
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