朝来市生野町新町・奥銀谷の町並
生野町新町・生野町奥銀谷
地図


生野町新町の町並
 朝来市生野町新町・生野町奥銀谷は市川上流右岸の堆積地。新町・奥銀谷町とも慶長5年(1600)から幕府領、生野代官所の管轄。新町・奥銀谷町とも銀山廻7町の一つ。
銀山廻7町とは江戸幕府が生野銀山の経営上特別区としたもので、口銀谷町・猪野々町・新町・奥銀谷町・小野町・相沢町・白口町を銀山廻りと総称した。
「新町・奥銀谷町」は生野町市街中心部より市川を2〜3km程遡った所で、「銀山旧記」の天正15年(1587)条に「新町・奥銀屋」にはまだ人家ないとし、慶長5年(1600)条には「新町・奥銀屋町」に人家ができて次第に繁昌してきたと記され、谷の狭い所へ京・大坂より商人が集まり、寸分の空地を争って紺屋・扇屋や諸商人が軒を連ねて居住し、全て板葺き・瓦葺きで藁屋などはなかったという。
正保頃(1644〜48)成立の国絵図に「生野新町と記されるが、高の記載はない。
享保15年(1730)の銀山宗門改帳では、新町の家数193・世帯数343・人数1,845。奥銀谷町は家数103・世帯数201・人数809とある。
銀山廻りの町は代官所の膝元で特殊な環境下にあり、一部の農家を除いて住民の大部分は銀山に関係があった。生野で精製された銀の全量は、代官所で買い上げられ、銀の横流し防止と、人や物資の出入りの監視のため、街道・間道を問わず要所に番所を設け、厳重な監視が行われていた。
新町・奥銀谷町の家数・人数は明治24年新町229・835、奥銀谷町136・482。昭和5年新町223・839、奥銀谷町90・372。昭和35年新町275・1,059、奥銀谷町117・456とある。
生野銀山は銀・銅・鉛と鉱物資源を変えながらも、繁栄・衰退を繰り返していたが、慶応3年(1867)に近世の生野銀山は幕を閉じてしまった。明治に入り政府指導で鉱山経営にあたり活況を取り戻し、明治29年に三菱合資会社に払い下げられ、昭和48年に生野銀山は閉山になってしまった。
昭和20年頃から新町・奥銀谷町の一部に鉱山社宅が増設され、200世帯も増えた時期もあり賑わったが、今は静かな旧街道筋の町並を見せている。
大型の商家の建物や各種の問屋業で富を得たような伝統的な様式の家屋が連なる町並が残っている。虫籠窓を残した家、本卯建を揚げた家、千本格子を残した家、茅葺の家、煙出しを残した家等々が結構良い古い町並を演出していた。
町並み指数 40
参考文献       
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名辞典編纂委員会  昭和63年
  兵庫県の地名U   平凡社   (有)平凡社地方資料センター   1999年

生野町新町の町並

生野町新町の町並

生野町新町の町並

生野町新町の町並

生野町新町の町並

生野町新町の町並

生野町新町の町並

生野町新町の町並

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生野町奥銀谷の町並
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