青垣町佐治の町並み
佐治
地図


青垣町佐治の町並
 佐治は亀山(亀岡市)から分かれた京街道が、篠山ー柏原ー佐治ー遠阪峠ー簗瀬で山陰道と合流する主要道の要所であり、播磨への往還が分岐し、早くから町場が形成されていた。
丹波が羽柴秀吉の支配下に入った天正10年(1582)には既に羽柴秀長が禁制を掲げている。佐治村は新町・中町・上町・横町・上浦町・下浦町・東角・下市場よりなり、慶長3年(1598)柏原藩領となり、慶安3年(1650)幕府領、元禄8年(1695)から新町・中町・上町・横町・上浦町は柏原藩領、下浦町・東角・下市場は旗本牧領となった。
生野銀山からの年貢上納銀は毎年数回にわたって、生野から但馬の簗瀬に入り遠阪峠を越えて、佐治で一泊し、柏原を通って大坂にむかった。途中の道中警備は厳重であったが、必要な経費は伝馬が通過する町村の負担であったから、佐治の負担も大変なものであった。
江戸後期寛政7年(1795)に刊行された、「丹波志」によると家数300余。佐治川を越えた田地に上市場、中市場の地名が残っていることから、古くは北西に街並みが広がっていたと見られる。
街道沿いの街として発展し、旅籠屋も多く、出身地の地名を屋号とした店が軒を連ねていて、人馬の往来も頻繁であった。
江戸期、佐治の町には毎月2と9のつく日に市が開かれ、和紙や佐治つむぎ・丹波布などの取引で賑わった。
丹波志によると、氷上郡内の産物として佐治村では養蚕が盛んで、「蚕を多くし 糸多く出す」と記されている。この地の養蚕業は京都西陣織・丹後ちりめんの原料を供給するものであった。その後、佐治の有志が発起人となり、明治15年氷上郡繭糸改良会社を設立し、機械製糸を始めたのを皮切りに、製糸工場は11を数えるまでに成長し、製糸業の隆盛とともに郡内一の賑わいを呈した。
今町並を歩くと、明治期の製糸業隆盛時代の町並がそのまま残っている。大型の伝統的な商家の建物は平入りだが、一般的には妻入りの商家の建物が多い。2階建て又は中2階建てで、漆喰塗り込めの虫籠窓も備わっていた。県道がバイパスとし町並を外れて通ったので、町並はそのまま保存され、明治期を再現したようないい町並が残っていた。 
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参考文献       
  兵庫県の歴史散歩下  山川出版社  兵庫県高等学校教育研究会  1996年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名辞典編纂委員会  昭和63年
  兵庫県の地名T   平凡社   (有)平凡社地方資料センター   1999年

青垣町佐治の町並

青垣町佐治の町並

青垣町佐治の町並

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