忠臣蔵で有名な赤穂は、兵庫県の南西端にある。千種川の河口に初めて城を築いたのは、赤松満祐の一族岡豊前守光景で、室町時代の享徳年間(1452〜54)のことであった。 その後 戦国時代の末期には宇喜多氏が、また江戸時代の初めには池田輝政がこの地を領有し家来の垂水半左衛門勝重を赤穂に派遣し郡代として治政にあたらせ、それぞれ城を修復した。輝政の五男の政綱によって藩として一応独立し、藩邸の体裁も整ったが、城としては未だ小規模なものであった。 赤穂城が現在の城跡のような規模になるのは、江戸時代初期の正保2年(1645) 常陸笠間から浅野長直が入封してからのことであり、その後13年の歳月をかけて完成させた。天守閣は造らず天守台が築かれた。この城を築いた浅野氏は長直の孫の長矩が有名な刃傷事件を起こして、元禄14年(1701)に断絶した。その後備中西江原から森氏が転封となり明治維新まで続いた。 戦国期には城があったとされるが、天正10年(1582)備中攻めの豊臣秀吉が当地を通過したときには、まだ、町並らしきものがなかったようだ。その後、池田氏の小規模ながらも築城時に、城の北西に武家地、北に町人地を配した。寛永城下付近絵図によれば、町屋248軒、南北の通りは東から馬場(町)・コンヤ丁(紺屋町)・本町(通り町)・風呂屋町、東西の通りは南から一丁目・二丁目(中村町)・三丁目・寺町(四丁目)が記されている。 この様に城下町が成立する以前から集落を形成していたようだ。 城下町が成立したのは戦国時代末期の宇喜多氏による築城(刈屋城と呼ばれた)が行われた頃から始まり、その後池田氏の時代を経て、浅野長直が藩主となり、大規模な築城と城下町の整備を行い、現在見られるような城跡と城下町をつくりあげた。 城の北西部は家臣の屋敷三百数十軒、足軽長屋十数棟の武家地の上仮屋と、北部は東・西の惣門と13の寺院に囲まれる形で家数510軒の町人町加里屋(下加里屋)となった。町人町はその後細工町・吹田屋町……など十の町が新たに出来た。 城下町赤穂の面影は浅野家の菩提寺花岳寺付近から城跡までの、加里屋地区を中心に町人町であったところに見ることができる。そこでは伝統的な町家が軒を連ねていた。切り妻造り、平入り、本瓦葺、中二階、白漆喰塗り込めの虫籠窓、千本格子が一般的である。格子と板で作られた蔀戸をもつ町家もある。 赤穂の塩の歴史は古代にさかのぼるが、本格的になったのは近世初期からで、塩の生産は近世の赤穂藩の財政を支え、また隣りの龍野の醤油業の発達にも大きな力となった。 赤穂の上水道については、城下加里屋は千種川のデルタであるため、掘り井戸は海水が湧き飲用にならず、雨量が少なくて頼ることができなかった。そんな背景から、日本三水道の一つとされる赤穂水道が敷設されたのは池田輝政の頃であった。その後拡張、改修が何回もなされ赤穂城内や城下町へ水を供給し続け、人々の暮らしを支えてきた。この赤穂の上水道は昭和19年に近代的な上水道ができるまで、約300年以上のながきにわたって人々の暮らしを支えてきた。 城跡には大石内蔵助邸長屋門残っていた。間口28間、奥行45間の家老屋敷は享保14年(1729)の火災のため焼けてしまったが、長屋門のみが焼けずに残ったもの。入り母屋造り、平屋建ての本瓦葺の長屋門から広大な家老屋敷をかいま見ることができる。 兵庫県の歴史散歩下 山川出版社 兵庫県高等学校教育研究会 1996年 新赤穂紀行 赤穂観光協会 平成4年 大石神社と赤穂城 大石神社 大石神社宮司 飯尾 精 平成8年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 |
大石内蔵助家長屋門 |
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