明石市大蔵谷は畿内と畿内以西を繋ぐ場所に位置しているため、中世以降は戦乱の中で軍事的要所となっていた。 「太平記」巻14には足利尊氏の京都攻略時に、細川定禅が中国・四国の兵を率いて、赤松範資らと大蔵谷で合流している。また南朝方と北朝方の湊川の戦いの前哨戦も建武3年(1336)に当地で戦われている。 江戸時代の大蔵谷村は明石藩領で、宝永元年(1704)の指出帳によれば、家数294軒・人数1781人、本陣1軒、旅篭屋60軒、庄屋2軒、山廻り2軒、社家2軒、医師2軒、大工桶屋2軒であった。 西国街道(山陽道)の宿場として発達していたが、元和3年(1617)当地に入った小笠原忠政が新城の明石城を人丸山に建築した際に、大蔵谷の宿場町は城下町への吸収が図られ、もとの街筋の西側3分の1が城下町の新しい町割に組み入れられた。 本陣は広瀬氏が勤めていた。 「播磨名所巡覧図会」に大蔵谷の賑わいが書き上げられている。嘉永4年(1851)・文久3年(1863)の大坂浪花講の諸国定宿帳によれば、大蔵谷宿には「はし本や久右衛門」などの旅篭屋の名前が見える。 明治14年の戸数718軒・人数2905人であった。 宿場の西側には城下町が発達していて、天和2年(1682)の城下町10町の戸数は1358軒、宝永6年(1709)の15町の戸数は1760軒であったので、宿場の経済的な機能は大きく城下町に依存していたようである。 今 町並みを歩くと、阪神淡路大震災の影響か、古い伝統的な民家の建物が僅かしか残っていなかった。古い町並みとは云えないが、それでも改造や建替えられた家に混じって伝統的な中2階建て、虫籠窓、漆喰塗り込めの建物が点在していて、宿場町時代の面影を伝えていた。 再開発の顕著な土地柄の上に、大震災の中心地であったので、訪ねるまではどの程度の建物が残っているかは疑問であったが、思っていた以上に古い建物が残っていた。これだけ再開発 が進み、震災で被害にあっても、尚これだけの古い伝統的な建物が残っている。瀬戸内海沿岸の歴史的遺産の蓄積量と言うのは凄いものだ。 兵庫の街道いまむかし 神戸新聞綜合出版センター 橘川真一 平成6年 兵庫県の歴史散歩下 山川出版社 兵庫県高等学校教育研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 |