相生市相生は兵庫県の播磨地方の西部、瀬戸内海播磨灘から深く湾入りする相生湾の奥に位置する。 相生村は現在の相生1〜5丁目を中心とする地域で、現在の相生市の中心街の相生駅南側辺りは那波村と呼ばれ山陽道が通り宿場町であった。 相生村の江戸時代は赤穂藩浅野家改易により幕府領であった元禄14年(1701)から元禄15年(1702)を除き、元和元年(1615)より赤穂藩領であった。 貞享5年(1688)の那波五ヶ村明細帳には相生浦と見え、田高124石余・畑高84石余、家数159・人数1053、牛15、船数は柴船(廻船)7・猟船70、鉄砲1とある。 元禄14年()の村明細帳によると、高215石余、家数215とあり、職業構成は廻船商人7・魚商人50・魚問屋25・猟師127・船大工1・紺屋2・酒屋1・寺・神主1とあり、漁業を生業とする集落であった。 木下家に残る記録でも、相生村は漁業集落で那波村は廻船業を専らとしていた。天保7年(1836)の記録では、鰡(ボラ)を増殖するため禁漁区を設け、鰡座を組織するなどして、漁獲高を向上するために努力した記録が残る。 明治に入り、山陽鉄道(現JR山陽本線)が開業し、那波駅(現相生駅)が開設され、那波は鉄道の開通、那波港の水運と相まって商業も発展した。一方相生村は漁業中心の集落のままであった。しかし元村長の唐端清太郎は明治40年に相生湾の西側に造船所を設立し、第一次大戦・第2次大戦を経て石川島播磨重工相生工場となり大きく発展したが、東側の相生村の漁業集落は大きく開発されることなく、今に漁村時代の面影を色濃く残している。 この漁村集落も長方形の形状をした規則正しい道によって町立てされているところを見ると、かって、大火後に大規模な町割りが行われたと思われる。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 兵庫県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1999年 |
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