八日市市の町並
金屋一丁目・金屋二丁目
金屋三丁目・浜野町・清水一丁目・栄町・西中野町・東中野町
地図  地図  地図


旧御代参街道沿いの浜野町の町並み
 この地域は中世社会で、近江国湖東地方において活躍した、四本商人と称される、伊勢越え商人団の一つ保内の座商人団が活躍した所である。
八日市には古代以来の市場、八日市庭が立っていた。起源については聖徳太子の開設とも、また天智天皇4年(665)四月に創立されたとも言われている。
八日市は毎月八の日に市が立ち、鎌倉時代以降、湖東の主要な定期市として発展した。
八日市庭の主要交易品は、保内商人による御服と伊勢や若狭から持ち込まれる魚類であった。保内商人の他、伊勢越四本商人の小幡(現五個荘町)、愛知川(現愛知川町)、横関(現竜王町)など湖東地域を代表する有力商人たちの交易も活発に行われた。
貞享4年(1687)の定書によると、市の範囲は八日市村から浜野村迄延びていたようである。
慶長2年(1597)ころから市小屋が建てられていたようで、地代として間口の権利が売買されていることから、市での常設店舗化が進んできたのだろう。
市日は毎月2と8の日の計6日間で(明治14年「願書」市神神社文書)矢立・農具などの手工業製品、酒・菜種などや八日市周辺で生産された茶・柿渋・煙草などの農産物が取引されていた。
文化10年(1813)の浜野村絵図や明治4年(1871)の八日市大火絵図によれば、西流する駒井川を挟んで北に八日市村と浜野村、南に金屋村があり、同川に沿って東西に八風街道、ほぼ中央を南北に御代参街道が貫き、金屋村内では駒井南岸に沿って町家が並び、八日市村から浜野村にかけては御代参街道の両側に町家が続いていた。
明治4年、金屋村から出た火事は強風のため北西へ焼け広がり、265軒が焼失する大火となった。金屋村は4軒半、八日市村では123軒、市小屋96、浜野村では138軒が焼失した。
尚、焼失した265軒のうち152軒が借家であった。
しかし、八日市では近代に入っても、店舗営業と市日の商いを併存しながら、活気ある商業地として賑わい、市は第2次世界大戦頃まで続いていた。
明治物産誌によると、八日市村は家数268軒で内171軒が商家であり、金屋村は家数234軒の内商家101軒・工業は13軒、浜野村は家数131軒で農業人口が60%を占めていた。
今、南北に延びる旧御代参街道筋を歩くと、古い伝統的な様式の家屋が連なる。虫籠窓は改造されて少なくなり、真壁造りにガラス窓という形式であった。建部日吉町・浜野町や金屋一丁目・栄町・西中野町・東中野町などの旧御代参街道筋には、中2階建て、平入りの商家の建物が連なり、江戸時代から明治時代の街道町・宿場町の面影を色濃く残していた。一番賑やかだった中心の本町はアーケードに覆われて、商店街になってしまい、残っている伝統的な家も、改造され、古い町並は全く無くなっていた。
(御代参街道とは、中山道の愛知川宿と東海道の土山宿を結ぶ街道。八風街道とは京都・近江から八風峠を越えて伊勢へ抜ける街道)
町並指数  50
参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和54年
  滋賀県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1991年
  滋賀県の歴史散歩上  山川出版社  滋賀県高等学校歴史散歩研究会 1993年


左側金屋三丁目・右側金屋二丁目の町並み

御代参街道沿いの町並(右金屋一丁目 左清水一丁目)

御代参街道沿いの西中野町の町並

御代参街道沿いの西中野町の民家 本卯建が上っている

御代参街道沿いの町並(右 東中野町 左 西中野町)

旧御代参街道沿いの浜野町の町並み

旧御代参街道沿いの浜野町の町並み

旧御代参街道沿いの浜野町の町並み

金屋二丁目の町並み

金屋二丁目の町並み
古い町並みへ戻る