この地は年間快晴日数が20日〜30日程度で湿度が高く、江戸期より丹後ちりめんが盛んに織られた地である。 江戸はじめは宮津藩領、寛文6年(1666)幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年(1680)幕府領、天和元年(1681)以降宮津藩領で明治を向えている。 延宝9年(1681)宮津城主となった安倍氏が農間余業として織物を認可し、享保6年(1721)に京都西陣で技法を学んだ山本屋佐兵衛らが、当地に縮緬織の技法を広めたとされている。そして三河内村は丹後最大の機台数を誇っていた。明和3年(1766)の織機数63機、享和3年(1803)に120機、文化年間(1804〜18)102機、嘉永年間(1848〜54)149機、文久年間(1861〜64)153機。幕末の家数290。明治2年の家数288・人口1,183。 丹後縮緬の発展に伴い、動力織機でもって昭和初期まで栄えていた。その後一時衰退するも、第2次大戦後に復活して今に続いているのである。 三河内集落は峰山街道に沿って発達していて、今でも織物問屋や織物工場が連なり、織機の音が町中に響き渡り活気にあふれた丹後縮緬の街である。 殆どの家は切り妻造りの2階建てで、明治期から昭和初期頃に建てられた家が多いようだ。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 京都府の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
三河内の町並 |
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