天橋立の砂礫に区切られた宮津湾の内海阿蘇海に臨んで、一番奥まった所が岩滝である。江戸期は峰山藩領・幕府領などの年貢米の積み出し港として賑わった。 当地は2度のわたり一時幕府領となったこと以外、殆ど宮津藩領で推移している。 江戸中期ころより立地条件に恵まれて、この港町の廻船問屋が生糸・縮緬業を兼ねるようになり、岩滝港町は益々栄え丹後縮緬の中心地としても繁栄した。そして商圏をめぐって宮津町問屋資本と対抗し、宝暦8年(1758)には当地への他国他領船入津禁止令が宮津藩から出されている。 幕末になると小室家・糸井家・千賀家などの廻船問屋の兼営する絹問屋が成長、、奥州糸を直接移入して宮津の糸絹問屋資本や宮津藩権力と組んで、京問屋の独占と対抗し、京問屋に代る機屋支配を行った。 明和年間(1764〜71)の機数32、文久年間(1861〜64)99。天明5年(1785)家数189・人数878とあるが、家数は文化7年(1810)207、弘化3年(1846)287、嘉永7年(1854)305、元治元年(1864)326と大きく増加しているのは運航・機業関係の発展によるものと思われる。 今古い町並は与謝野町役場(旧岩滝町役場)を中心に展開している。平入りの中2階建て又2階建て、切り妻造りの町屋が連なる。格子戸、虫籠窓、煙り出しを残した家も多くあり、街道に沿っていい町並を形成していた。かっては港町だったのだが、今は全く港町の様相が街中からは感じられなかった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 京都府の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
岩滝の町並 |
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