山城町上狛の町並み
上狛
地図


上狛環濠集落内の町並

山城町上狛は京都府の南部、木津川の流れが西から北へとほぼ直角に屈折する地点の右岸一帯をいう。そして、ここは山城国府推定地でもある。
上狛は渡来人狛氏の居住地であって、居住地を含む東西430m、南北420mの環濠集落を城としたもので、狛城跡といわれ、文明年間(1460〜87)狛日向守の築城とされている。
狛氏は興福寺領狛野荘の下司・公文職として、同荘を基礎に大きな勢力を持ち、北の椿井氏と対立した国人(土着武士)で、応仁の乱(1467〜87)では狛山城守秀盛は東軍に属して奮戦した。その後の畠山政長・義就の対抗の中で、狛氏は政長派、椿井氏は義就派であって大和へも出陣した。しかし文明15年(1483)狛山城守は義就派の夜襲を受けて没落し、椿井氏の勢力がこの地に及んだ。
そして南山城が中心となっての国人一揆。戦国の混乱期を経て織田信長の出現、豊臣秀吉・徳川家康と歴史は進む。
江戸時代の山城国は、淀藩があったのみで、公家・社寺領が多くを占めていた。久世・綴喜郡は武家領が多く淀藩領であり、相楽郡は伊勢の津・久居両藩領と柳生藩領が多くを占めていて、各村は小規模な領主によって分割されるという特徴を持ち、しかも入り組んでいた。一村で何人もの庄屋がおり、支配関係は複雑を極めた。
上狛村の江戸期は範域が一定しないが、狭義の上狛村(東法華野・西法華野・野日代)では「元禄郷帳」で1113石余りであり、禁裏御料と蔵入り地と冷泉家領・藤堂藩領(安濃津藩)などであった。
奈良街道が村の西部を、椿井村から南下して木津川の上狛の渡しを経て木津郷へと伸びていた。
今、町並みを歩くと、環濠集落跡の堀が南東から南西を通り北西へ抜ける部分が残っている。
かっては堀幅がおよそ3間(約5.4m)もあったが、今では少し幅が狭くなった部分もあり、この環濠集落は文字通り環濠で囲まれた中に、田畑と村があり堀の内側に土塁を築き、竹薮や雑木林を連ねていた。人々は郷とか垣内と呼ばれる単位で共同生活を営んでいたが、この単位は今でも生きていて、角垣内・城垣内・御堂垣内・磯垣内・殿前・小仲小路・野目代という七つの郷名が通称名となっている。
町中は江戸時代の町割そのままに、人がやっと通れる道幅の小路で構成された町並みである。
家屋も商家の建て方でなく、長屋門を設けた豪農の屋敷といった建て方の民家が多く、煙だしを付けた主屋を見ると、かっての繁栄の跡が偲ばれる。
上狛環濠集落より南へ下がり、町役場を越えて木津川へ突当たったところに泉橋寺がある。
この泉橋寺の周辺も環濠集落同様に古い町並みがあるが、特に変わった点は、江戸・明治から大正時代にかけて、製茶工場や製茶問屋が多い商業地として発展したところである。今でもテレビなどでお馴染みの大手の製茶業者が店を構えて営業している。
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参考文献 
  京都府の歴史散歩下  山川出版社  山本四郎  1995年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和57年


上狛環濠集落を囲んだ堀

上狛環濠集落内の町並み

奈良街道に沿った町並み

上狛環濠集落内の町並み

上狛環濠集落内の町並み

上狛環濠集落内の町並み
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