「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」この馬子唄でしられる鈴鹿峠は、箱根と並ぶ東海道の難所。その山麓鈴鹿峠越えの宿場町土山町は滋賀県の南西部、三重県との県境に位置する。 宿は東海道を挟んだ南北両土山村にあり、天保14年(1843)の「宿村大概帳」では、宿の大きさは東西約22間(約2.5km)もあり、宿場の家数351、人口1505人、本陣二、脇本陣はなく、旅篭大小合わせて44軒と記している。宿場としては水口の半分の規模だが、旅篭数は水口より多い。土山は鈴鹿峠口にあって宿泊客が多く、水口は休憩客が多かったためである。 なお、土山はもと一村であったが、永享12年(1440)に街道を境に南北土山に分村したという。土山宿の成立は文録4年(1595)と云われている。(土山町有文章) 南北両土山村は幕末まで幕府直轄領であったので、宿内には陣屋が置かれていた。土山陣屋は瀬古川の東にあり、天和3年(1683)に代官猪飼次郎兵衛が建てたといわれている。 土山宿は僅かに湾曲した街道に沿った町並で、江戸時代の面影を残す古い町並みがよく残っている。二つの本陣のうち土山氏本陣は、寛永11年(1634)の徳川家光上洛に際して本陣となったと伝え、また大黒屋本陣はこれより後に本陣に取りたてられ、両本陣とも明治3年まで続いた。 土山氏本陣は現在も、大名が宿泊した玉座(上段の間)や江戸時代の庭園が残されている。宿の東に田村神社がある。安藤広重が東海道五十三次の土山『春の雨』を描いた地点がここである。 今の土山公民館の辺りが土山宿の中心部で、土山氏本陣、大黒屋本陣、陣屋、問屋場などがこの辺り一帯にあって、古い伝統的な家屋が連続して残っており、電柱がなければ江戸時代にタイムスリップしたようだ。 土山氏本陣の主屋は切り妻造り、二階建、平入り、黒漆喰塗り込めで虫籠窓、格子、格子戸、出格子は荒格子になっていた。土山宿の伝統的な家屋は、切り妻造り、中二階建、平入り、漆喰塗り込めの虫籠窓、格子、出格子、桟瓦葺が一般的の様である。 町中に二階屋脇本陣跡石碑の立つ土山家がある。天保14年(1843)の記録では、本陣二軒で脇本陣はなかったが、時代が下るに従って、参勤交代などの大名の往来が多くなり、幕末に脇本陣ができたようだ。 土山宿の西の端に土山宿の追分がある。そこより北に「御参道街道」なる街道がはじまる。「お伊勢参らば お多賀へおいやれ お伊勢お多賀の子でござる」と謳われた多賀神社へお参りする御代参街道はここから多賀へ通じ、お参りの人々や近江商人が行き交じった道であった。 土山宿の名物は土山茶と櫛(お六櫛)で、ともに飛ぶように売れたという。 土山宿で気づくことは、地元「土山の町並みを愛する会」が屋号の看板や宿の施設・旅篭跡の石碑などを立てている。これは地元住民が、歴史的な町並みを誇りに思い、大切にしようとする住民の意識や理解があってこそできるものであり、大変好感が持てた。 古道紀行 保育社 小山 和 平成3年 滋賀県の歴史散歩上 山川出版社 滋賀県高等学校歴史散歩研究会 1995 近江東海道 サンライズ出版 淡海文化を育てる会 1997年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54 |
本陣近くの町並み |
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土山宿東部の町並み |
左側は本陣 |
町並み |
町並 |