丹波町須知の町並み
須知本町
地図


須知本町の町並

  この地は古くからの交通の要所で、山陰道が当地を横断する一方、綾部街道が分岐していて、明治の末期まで宿場町として栄えた。
現在も山陰道が国道9号線に、綾部街道は国道173号線に、そして国道27号線が分岐する交通の要所である。
須知の南東1.5kmのところの山上に須智城跡がある。当地の豪族須知氏の居城で、天永年間(1110〜13)年に須知慶吉が築城したと伝えるが、確かなことは不明である。
室町期に入り守護は山名氏、ついで明徳3年(1392)以降細川氏が8代に及んで世襲した。寛正3年(1462)頃の須知村は五山相国寺塔頭雲頂院雲沢軒の所領であった(蔭凉軒目録)。
須知氏は南北朝時代は南朝方に属したが、その後、丹波守護細川氏に従った。
延徳元年(1489)から4年間にわたる国人一揆の中心となったため、細川政元に攻められ城は落ち、須知氏は一時没落した。しかし、その後復活し、天正年間(1573〜1592)須知元秀は明智光秀に味方して、八上城攻めに加わり、八木城内藤氏を攻めたときに討死した。その喪中の天正7年(1579に)明智光秀に攻められ須知城は落城、ここに須知氏は滅亡した。
江戸時代、須知村の支配は亀山藩であって、元禄13年(1700)の「元禄丹波国郷帳」によると、須知の村高は528石余、「天保郷帳」によると532石余。明治21年の須知村の戸数は222戸であって、主な産業は農林業が中心で、米麦・薪炭・茶・繭などを産していた。
町並みを歩き出して気になったことは、古い町並みが相当数残っているにも関わらず、地元も行政も全く関心が無いのか、保存や保護に気を使ってない様である。町並みの説明もなければ標識もない。明治の末期までは宿場町として栄えた筈であるが、丹波町誌にも須知宿のことは殆ど触れられていない。
旧山陰街道が南北に貫通し、その街道沿いの両側に集落があり、かっての宿場町としての町並みを留めている。今でも商店が立ち並び、道中講を掲げた旅館も現役で活躍している。
国道9号線が旧街道の東側を通ったので、古い町並みがそのまま残ったのだ。町並みが残る理由がもう一つ。明治32年山陰線は京都〜園部間が開通し、須知は園部町以北の貨客往来の要所となり商業が発達するかに見えたが、明治43年山陰線は、須知を迂回して園部〜綾部間に敷設されたため、須知の商工業の発展は停滞してしまった。
町並みは丹波地方で一般的な、妻入りの商家の建物が多く、中二階建て白漆喰塗り込めで、妻側に軒庇が付けられている。しかし大型商家は平入りになっていたが、数は少なかった。
丹波町で説明などしていないので判らないが、古い町並みを構成する建物は、江戸の末期から明治期にかけて建てられた建物のようであった。
町並み指数  50
参考文献
  京都府の歴史散歩下  山川出版社  山本四郎  1995年
  丹波町誌  丹波町  丹波町誌編纂委員会  昭和60年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和57年


須知本町の町並み

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